語られなかった東日本大震災 ~Episode 17~

『歴史の証言者』(後編)

前編 Episode15 より続く)

「津波てんでんこ」。
三陸を取材していると度々耳にする、妙に印象深い言葉がある。
津波が来たら親兄弟にも構わず、てんでバラバラに高いところへ
逃げよ、という意味だ。
津波のスピードは僕たちが想像している以上に速く、
「来た!」と思った瞬間には津波に呑みこまれてしまうらしい。


(岩手県宮古市・田老湾。全てが破壊しつくされ、流された。)

とにかく生き延びるために、一族の全滅を防ぐため、
一人でも多くの子孫を残すための、三陸の海に生きる民の知恵だ。
今でも避難訓練の際には、「津波が来るぞーー!」と大声で叫びながら
逃げるように、逃げる一人ひとりが「津波警報」になるように、と
教えられている所も多いのだという。

三陸の地で被災者の声を拾い続けていた僕が、
この岩手県宮古市田老地区で出会ったひとりのおばあちゃん。

赤沼ヨシさん。
大正6年10月26日生まれの、93歳だ。
何かと不自由な避難所暮らしを強いられているものの、至って元気で明るい。
昭和8年の大津波の後と比べれば、天国のような暮らしだと朗らかに話す
姿が印象的だ。
それもそのはず、聞いて驚いたのだが、78年前は救援物資もろくに届かず、
雪が降り続く中で、掘立小屋を建ててムシロに寝ている人も多かったという。
食べる物も殆どなく、ごく稀に手に入る握り飯も寒さのためにカチコチに凍り、
また着る物もなく、ただひたすらに救援を待つ日々。
遺体が片付けられることもなくあちこちに転がり、数少ない食料品などを
人々が奪い合う光景は、まさに地獄のようだったという。

ヨシさんはこの田老の地で生まれ育ち、また父・堀子丑松さんは、
明治三陸大津波の数少ない生き残りとのこと。
首筋がチリチリするような不思議な感覚・・・。
【凄い人に出会ってしまった!】
・・・そう、テレビディレクターとしての勘が告げる。

「その時は、お昼を食べとりゃした。お昼さ、夢中になって食べとるところに、
どーんというように盛り上がるような、横揺れに・・・
立てないから四足になって玄関まで行きゃーした。
変な地震だなぁ、とその時は思いやして、慌てて玄関に出りゃーした。」

その日、ヨシさんは遅めの昼食を一人で食べていた。
午後2時46分。
時計の針がその刻を指した瞬間から、ヨシさんは再び地獄の淵を覗くことになる。

高齢に加えて、方言もきつい。
何を意味するのか分からない言葉も多く、またなぜか廓詞のようなものが
混じっていて、非常に聞き取りづらかったものの、そのひとつひとつが
とてつもない価値を持っている事は十分に理解できた。
僕は喰らいつくようにペンを走らせ続ける。(もちろんカメラは回っている)

「前の昭和8年のね、津波のようたれば、第一波が来て、それがまた引いてから
第二波が来たんでござんすが、今度の津波は一波も二波もねぇ。
海が盛り上がったみたいに来んでござんますもんで・・・
引き波も何にもないような・・・」

一言、一言振り絞るように語る、93歳の証言の重み。

「わだし、一生懸命走って10メートルも行かないうちに、ガリガリガリって
音がして後ろを向いたら、波が防潮堤の上を3メートルだか、4メートルだか
乗り越えて、波の上がキラキラ光りながら、こっちに来んだもん。
昭和8年の津波の3倍はあるってピンときたでござんす。
それから一生懸命逃げた。押し車を押して・・・。
でもその車がいうこと聞がねぇ。」


(赤沼ヨシさん(93)の押し車)

今回の津波がいかに巨大なものだったか。
昭和8年時のそれの3倍はあったとヨシさんは語る。
もちろんそれは正確なものではないのだろうが、実際に2度の大津波を
体験しているだけあって、言葉に迫力と説得力がある。
波というより、「のっ、と」海が浮き出てきたような感じ・・・
そう何度も繰り返すヨシさんは、逃げながら不思議なことに気が付いたという。

「昭和8年の時もその通り。誰も津波だ!という人は一人もいないでござんした。
みんな無我夢中で山に登るんでございます。もう夢中になって声も出ない。
津波で逃げっ時は、本当に誰もみんな何も言わないでござんすよ。
隣の人も呼ばないでござんすよ。自分たちの命を守るのに一生懸命で。
誰も津波だー、という人はないござんす。今度もその通りで・・・。」

津波てんでんこ。
大声で叫びながら逃げるようにと訓練されてきたにも関わらず、いざとなると
言葉もなく、ただ黙々と逃げるしか術がなかった田老の人々。
さらに過去の津波の恐ろしさを知らない人々の中には、のんびりと立ち話を
していてそのまま帰らぬ人となったケースも多かったという。
さらに問題なのは、田老地区の津波警報が鳴らなかったのではないか、
ということ。

「津波だ、という警報が鳴らなかった。
逃げる時にサイレンが鳴ってくれたら、人がもう少し助かったんで
ねぇだべな・・・って。
なんぼすごい防潮堤を造ったって、今度の場合、あんまり人の命は
救えなかったでござんすべ。
だから、やっぱり警報だけはしっかりしてもらえれば、もっと人が
死なないで済んだのでは・・・。
警報は一人残らず逃げ切るまで鳴らしてもらいたいでござんす。」

地震や津波で警報装置が故障したからなのかどうか理由は定かではないものの、
今回の取材では津波警報を耳にした人に出会うことはなかった。
行政に問い合わせてみると、警報は7回鳴ったとの記録はあるものの、
本当に鳴ったかどうかは分からない、という回答を得た。
いずれにせよ、あまりの恐怖に言葉を発することのできない住民に代わって、
早く逃げろと呼びかける津波警報の重要さを、ヨシさんは説く。
訓練はあくまで訓練。
想像を絶する事態に巻き込まれた場合の人間の心理状態までをも想定し、
強大な地震や津波にも負けない警報装置を作り、最後の一人が避難し終わるまで
警報を鳴らし続ける。
2度の大津波を生き延びた人間の言葉に、田老地区だけにとどまらず
日本全国の行政機関は耳を傾けるべきだと思う。


(一帯に住宅が並んでいたが、今では瓦礫の山・・・)

インタビューは休憩を挟みながらも半日以上に及んだ。
跡形もなく無くなってしまったヨシさんの家(があった場所)の前で、
最後に僕は、散々悩んだ挙句に、こんな質問をしてみた。

—またここに住みますか?

ヨシさんの目が潤む。
聞いてはいけない質問だったのかもしれない・・・後悔の念がよぎる。
しかし、ヨシさんは力強く僕の目を見据え、こう切り出した。

「生まれた里で、生まれ故郷で終わりたいと思っておりんす。
100歳まで生きたって、あと7年しかないでござんす。その人生を
どうやって暮らしていくか・・・。それまでにこの田老がどう復興すべか、
どのように変わっぺか、それも見ておきてぇす。やっぱり故郷は
捨てられないでござんす。」

その時、ヨシさんの脳裏には、昭和8年の大津波から力強く復興した、
かつての田老村の姿が蘇っていたに違いない。
また再び、全てを失い、何もかも無くなってしまったけれども、この田老は
再び元の姿に戻ることが出来る、そう確信していたのだと思う。

***

被災地を取材していると、批判的な目で見られることも多い。
家や肉親を失って苦しんでいる人々を映すことに意味はあるのか。
根掘り葉掘り、当時の状況を聞くのは野次馬と一緒ではないのか。
さらに興味本位の取材は止めてほしい、と言われたことも一度や二度ではない。
テレビなんてどれだけインタビューに答えても、どうせ使うのは数秒なんだろ、
と面と向かって言われたことさえある。災害救助やボランティアの人たちと違って、
僕たちは招かれざる客なのだ、と感じることが多々あるのも事実だ。

しかし、ヨシさんのような2度の大津波を生き延びた人物の貴重な証言・・・
歴史の証人と言っても言い過ぎではないと思うが、そのいつかは
失われてしまうであろう、彼女の記憶をカメラで記録することこそ、
テレビディレクターとしての使命であり、
マスコミに携わる人間にしかできない仕事なのだと思う。
ヨシさんだけではない、未だ8万人以上いる避難民の方々の「記憶」を
出来る限りたくさん「記録」し、「放送」すること。
そしてそれを教訓に、また必ず来るであろう津波の被害を最小限に抑えること。
それが僕の好きな三陸に対してできる、最大限の恩返しなのだ。

あれから3ヶ月が経ち、テレビや新聞紙上で震災関連のニュースは
減り続ける一方だ。
永田町の老人たちの醜い権力争いや、少女たちの「総選挙」を面白おかしく
大々的に取り扱うのも良いだろう。
そういったニュースを好む人たちがいるのも事実だからだ。
テレビは高尚であれ、と講釈を垂れるつもりはさらさらないが、
阪神淡路大震災の際には、その直後に起きた地下鉄サリン事件報道がテレビを
「ジャック」し始めた途端、義援金が集まらなくなったと聞く。

「3・11」を忘れないためにも、三陸の人々の「記憶」を「記録」することを
出来るだけ長く続けること。
それが復興を支え、また僕たちが再び、美味なる三陸の海の幸に
舌鼓を打つことができるようになる、一番の早道なのではないだろうか。

(了)

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 16~

『ボランティアは、人が行うし、人が受け入れる』

3.11の東日本大震災が起こって1ヵ月が経ったころ、
新聞に「県外ボランティア受け入れ拒否」という記事が載った。
道路環境の設備が整わないことや、食料の確保が行き届かないなどが
理由として挙げられていた。

そのときから私は、被災者側、そして
支援をする側でどういう思いがあるのか、
興味を持った。

ちょうどその時期、災害ボランティアに一週間参加する大学生に
密着することになり、ディレクターとともに宮城県・石巻市に向かった。
石巻市は海沿いを中心に津波に襲われ、多くの命が失われた場所だ。

取材の場所は石巻専修大学。
そこは、災害ボランティアセンターの拠点になっていた。
震災からわずか5日後にセンターが設置され、
いち早く県外ボランティアを受け入れた場所だった。

学生ボランティアたちは、大学のグラウンドでテント暮らしをしながら、
炊き出しや民家などのドロかきなど、連日作業を行った。


(学生ボランティアが寝泊まりしていたテント)

石巻市の4月はまだ、真冬と変わらないほど寒かった。
また強風でテントがグチャグチャに倒れてしまうことも。
夜になれば真っ暗になり、カメラライト一つで取材した。

学生ボランティアに密着して4日目。
民家でドロかき作業を終えた学生が、民家の持ち主から、
「明日も作業をお願いします」と声をかけられていた。
学生は「はい、明日もまた来ます」と答えた。
しかし、次の日、その家に学生が行くことは叶わなかった。

「公平性を保つため」
被災地では、ある一つの家が、毎日ボランティアを希望してくる
ケースが少なくない。
しかし、ある特定の家だけにボランティアの手が集中することは
公平性を欠くため、避けられていた。
人手が足りていない方に、配分される。こうしてバランスがはかられていた。
だから、例えある家の作業が一日で終わらなくても、
希望して次の日まで作業することは、なかなかできないのだ。

「なぜ、また作業ができないんですか」

「作業が終わっていないのに止めなければならないなんて、
ボランティアって偽善ですか?」

学生たちがカメラの前でこぼした声。

私はその言葉に何も答えることができなかった。

一週間ボランティアも終盤へ。
学生たちは疲れた表情を見せながらも、日ごとに新しく出会う
被災者たちの前で明るく、積極的に声をかけた。
「あんたたちがいて、助かったわ」と話す被災者の表情も、
被災後とは思えないくらい素敵な笑顔だった。

ボランティア作業は、泥かきや炊き出しで具体的に被災者を支援することが
一義的な目的だ。
しかし、作業とは別の要素が確実にある。
それは、“人と人とが関わりあうこと”だ。

私の目には、被災者も、そして学生ボランティア達も、
「継続」を望んでいるように見えた。

被災者側、そして支援する側双方を取材して思ったこと。
復興へと歩みを進める街に必要なのは、
撤去作業や物資や仮設住宅やお金だけではない。
それらをつなぐ、人なのだと感じている。

文責:制作部 高橋早苗

語られなかった東日本大震災 ~Episode 15~

『歴史の証言者』(前編)

僕は三陸が好きだ。

空気が良い。
人柄が良い。
そして何より、緑がストンと真っ蒼な海に落ちる、断崖絶壁の
壮絶なる美しさ。
とあるドキュメンタリーの取材で、世界的に有名なノルウェーの
フィヨルドを目の前にしてもイマイチ感動が薄かったのは、
三陸海岸の光景が頭にチラついていたからなのだと今では理解している。

「3・11」以前・・・、これまで何度も何度も
取材で足を運んでいた、三陸。
貧しい土地だからこそ花開いた特有の麺文化を調べ尽くし、
時にはアワビの密漁者をカメラで追った。
その度にお世話になったのが、どうしてこんなところに、と
驚くほど鄙びた場所にある漁村だ。
岸壁にへばりつくような村、という形容がぴったりな場所を歩いていると、
喧騒に包まれた東京からやって来た僕は、ここが同じ日本で
あることを(また仕事中であることを)忘れる事もしばしばだった。
こんなに不便な場所に住まなくても、などと失礼なことを
考えたことも一度や二度ではない。
今では日本全国当たり前のように繋がっているネットが通じず、
でもこの場所ではそれが「当たり前」で・・・。
どこかホッとする場所、というといかにも陳腐過ぎる表現にも思うが、
まさにそんな言葉が似合うのが、三陸という土地だった。

またそこで採れる海の幸は驚くほど美味かった。
とある漁師の家では、東京で食べたら幾らになるんだ!?と思うほど
大量のウニやアワビを肴に酒を呑み、朝まで語り明かした事もある。
そんな三陸の海の民と話していると、必ず話題に上ったのが津波のことだ。
特に明治29年、昭和8年、そして昭和35年のチリ地震津波の際には、
この村が如何に甚大な被害を受けたのか、また三陸の地が如何に
壊滅的なダメージを受けたのかを、皆、一生懸命に語る。
実際に経験したことのない人々も、先祖の話を引用しながら、
津波の恐怖を滔々と語る。そしてその被害から、どのようにして
復興を成し遂げたのかも。
当時の僕には「へぇー」としか思えなかった一方、津波と戦ってきた歴史は、
三陸の海の民の誇りでもあるのだな、と強く思った記憶がある。

そんな漁師たちとは、あの日以降、連絡が取れない状況が続いた。
まだテレビカメラが入れる場所は限られ、新聞の情報も不足していた時だ。
電話も当然、通じない。

あの三陸の小さな漁村はどうなっただろうか?
あのおじちゃん、おばちゃんは無事だろうか?
そんな祈りのような思いとともに脳裏に蘇ったのは、かつて
三陸の地を襲った大津波のことだった。
これまで何度も津波の被害から立ち直ってきた海の民。
114年前の明治大津波を経験した人で存命の方はもう殆どいないはずだが、
78年前の昭和大津波であれば・・・と考えたのだ。
二度の大津波を生き延びた人にしか語れぬ思い・・・。
それは後世に語り継ぐ価値が十分あるはずだ。
彼・彼女にしか語れないことを取材、放送する。
僕はこれを今回の取材の、ひとつのヤマと決めた。

岩手県宮古市田老地区(旧・下閉伊郡田老村)。
「津波太郎(田老)」との異名を持つほど、津波の被害で知られた地区だ。
明治大津波では1859人もの死者を出し、生き残った者は
わずかに100名足らず。
ほぼ全滅、と言っても過言ではない甚大な被害だ。
昭和大津波でも死者・行方不明者は911人を記録し、
村は壊滅的な打撃を受けた。
かつての教訓を元に、この地区には巨大な防潮堤が築かれていたのだが、
津波はやすやす人類の英知の結晶を破壊し、乗り越え、今回も多くの
住民の命を奪っていった(死者137名、行方不明者62名(4月24日現在))。


(ボロボロになった防潮堤)

僕が田老地区に到着した時は、すでに何か所か取材を終えた後だった。
通常とは大きく違う被災地での取材活動。
水や食料の不足、カメラのバッテリー充電のための電気の手配など、
いつも以上に神経をすり減らす日々が続く。
加えて避難民の方々のストレスもピークを迎えようとしていた
時期だったと思う。
取材する側、される側双方でトラブルが起き始めていた。
そんな中、被害の現状、そして被災地が今、本当に求めていることなどを
取材しながら、「昭和大津波の生き残り」を探していたわけだが、
実際それどころでなかったのも事実。
避難所で聞き込みをしても、
「今、それどころじゃないから・・・」
と言われる事も多々あった。
高齢のために逃げ遅れ、今回の津波で命を落とされた方もいた。

もう何百人の避難民の方の話を聞いただろうか。
取材スケジュールもギリギリだ。
明日にはいったん、東京へ戻らねばならない。
諦めかけたその時、僕の耳にある情報が飛び込んできた。
「ああ、そんな人なら、確か○▲×避難所にいたと思うよ。」

・・・いた!
昭和8年の大津波を生き延びた人物は一体何を語るのか?
逸る心を押さえながら、僕は避難所へと急いだ。

(続く)

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 14~

『被災』

震災後から、紙面に載らない日はない、
〝被災〟という言葉。
家が流されたり、仕事を失ったり、
積み重ねてきたものが一瞬にして消えたり・・・。
大なり小なり被害を受けた人たちは、その瞬間被災者になる。

× × ×
福島県いわき市。
巨大地震から1ヶ月後、震度6の余震の震源地だ。
余震と呼ぶにはあまりにも大きい揺れは、地を割き、山を崩した。
それは、何千年と活動を休止していた断層が
3月11日の地震で刺激されたことで起きた地震だった。死者も4人出た。

4月中旬、その断層のメカニズムを解明するため、専門家と現地へと向かった。
東京から車で常磐道を走り、2時間半後にはいわき勿来インターチェンジを降りた。

取材地で目にしたのは、数kmまで伸びる地面の亀裂。
途中、山を抜けて道路を横切り、そして民家の真下を走り抜けていた。

真っ二つに引き裂かれた民家では、ちょうど家族総出で片付けをしていた。
同行したキャスターが話を聞く。
今まで僕が取材した被災地(宮城・岩手)では、
その惨劇を嘆き、悲しむ姿が目の前にあった。
気丈に振舞う人もどこかやせ我慢のような悲壮感があった。

しかし、このときは想像とは違う反応だった。
一家の主が笑いながら言う。
『いやあ宮城の人のほうが大変なんで、これくらいたしいたことないです。』

え? 40年住み慣れた我が家が壊れて、これくらい・・・?
僕は耳を疑ったが、それははっきりと(方言まじりだったが)聞き取れた。
こんな些細なことで取材されて申し訳ない・・・

実はこの後何人もの福島県民から同じ言葉を聞くことになった。
『被災地のことを思えば・・・』
驚いた。こういうものを県民性というのであろうか?

そんな福島県民でさえも、怒りをあらわにする状況が長いこと続いている。
震災から3ヶ月。いまだ収束をみないフクシマ。

宮城も、岩手も、福島も、青森も、長野も、
「被災」していることを忘れたくない。

文責:制作部 金澤佑太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 12~

『余所者』

「3月11日に起きました東日本大震災…」

カメラを回し始めた直後に町内放送が突然スピーカーから流れ始めた。
宮城県の亘理町(わたりちょう)という小さな町で取材中の出来事だった。

一瞬何の放送かわからず、取材中だったイチゴ農家のお父さんの方を向く。

「3ヶ月…。」

お父さんが呟いた一言にはっと気付き、すぐ時計に目をやる。
やはりそうだ。
時計の針は間もなく「午後2時46分」を指そうとしている。

6月11日。

その前日の金曜日、「あすで震災3ヶ月」という被災地からの
中継企画のため、僕は南三陸町にいた。
中継オンエアを無事に終え、深夜になってから仙台のホテルに帰ってきた僕の中では
「震災3ヶ月」はすでに終わっていたのだ…。

「それでは1分間の黙とうを行います」

カメラを止めて黙とうをしようとカメラマンと音声に慌てて伝える。

瞼を閉じての1分間。
自分の中に恥ずかしさと申し訳なさが込み上げる。

「結局、余所者なんだ」

この3ヶ月間、その半分近くを被災地で取材をしてきた僕は
被災者の大変さを多少なりとも理解しているつもりだった。

しかし、実際に地震、そして津波の被害に遭った被災者なら
決して「震災3ヶ月」を忘れることはない。

「俺ら、マスコミは呼ばれてもいないのに訪れているんだよ。」

震災後初めて被災地へ行こうとする僕に先輩ディレクターが言った言葉。
東京へ帰る新幹線の中でもう一度その言葉を噛みしめた。

余所者でもいい。
お客さんとして迎えてもらえるように礼儀と節度を持つ。
土足で踏み込むようなことはしない。
招かれざる客にならないように。

文責:制作部 杉井真一

語られなかった東日本大震災 ~Episode 11~

『いつか聞ける日まで』

6月11日。
震災から3か月が経ちました。
区切りとも感じる日付。
しかしー

************************

今日から2か月前の4月11日。
僕は、宮城県南三陸町戸倉地区にいました。
南三陸町の中心部から離れた小さな避難所で、
避難民がどのように震災から1か月を迎えるのか気になり
取材地として選びました。

戸倉地区で避難所となっているお寺では、
30畳ほどの本堂に、40人もの人が寝泊まりしていました。
震災から1か月たったその日でも
ひとり1畳もない、窮屈な環境。
僕は、そこで黙祷をする数人の被災者と
地震発生2時46分の時刻を迎えていました。

寺に間もなく戻ってきた
浅黒い骨格のいい中年の男性。
取材で来ていたよそ者の僕には、目もくれません。
彼は帰ってきた途端、一升瓶を手にとりました。
僕は、その男性に話しかけてみることにしました。
震災から1か月経った今、何を思うのかー
2時46分はどこで何をしていたかー
よそ者が急に来て、“何を気安く話しているのか”と
いわんばかりの視線を感じた僕は、
席をたとうとすると、か細い声を耳にしました。

「どこにもいない」

震災後、奥さんが見つからないこと。
そして、あの日からこの避難所に戻ってくるまで
何日も何箇所もの遺体安置所を回ってきたこと。

今まで回った体育館に
布で覆われた物体、そこの空間の冷たさ、
震災前、ここで過ごした暮らしの豊かさを
僕に話してくれました。

しかし、胸中には取材を進めたいテレビディレクターとしての葛藤と、
聞いてあげたいヒトとしての道理を併せ持ってー
よそ者はよそ者なりにちゃんと聞くことができただろうか。
この自問を持っていることをとても情けなく思っています。
それ以来、持ち続けたモヤモヤを
この場で綴る事で少し晴らさせて下さい。

彼が目から流した優しさの分、
僕の肩と、その瓶は軽くなっていました。

震災から1か月ということは、その男性にとってみれば、
奥さんの行方を探し続けている長い道のりでしかないのです。
その長い道を前に進むことに必要なのが、
酒であり、聞いてくれる人だったのかもしれません。
どんな姿であれ、奥さんの姿をひと目見ることができれば
あのか細い声をゴツい男性から聞くことはなくなるでしょう。

————————————————

そうこう被災地へ行き来している最中、
ビンラディン暗殺のニュースが飛び込んできました。
そして、僕は9.11の遺族に取材に行くことにー

その遺族の自宅には、
アメリカ政府から受け取った骨壷らしき箱がありました。
しかし、開けることのできないその箱には、
遺骨は入っていないのです。
その遺族の方は、
大切な人が入っていない箱はただの慰めにすぎない、
そうおっしゃっていました。
遺族ではない僕らからすれば、
なんで10年経った今でも骨壷を家に置いているだろう
なんという安直な考えになってしまいます。
時間という区切りではなく、あの面影を待ちわびる人にとっては
慰めの箱なんかでは埋葬できないということなのかもしれません。

————————————————

震災で大切な人が安否不明のままの人。
思いがけない事件で大切な人を亡くした人。
その方々にとって、「日付」は、区切りではないのだなぁと思うのです。

彼らは、1か月、10年も探し続けているのです。

いつか、酒の入っていない彼から
太い声でこの震災のことを聞ける日まで
僕は通い続けたいと思います。

文責:制作部 佐々木将人

語られなかった東日本大震災 ~Episode 10~

『孤島の孤帆』

宮城県塩釜市浦戸諸島

あの日、この島々を津波が縦横に襲った。

あの黒い波は、定期船や集落、漁船など
あらゆる“島の面影”を持ち去った。

陸上だけではない。
海上の桟橋、カキやノリの養殖施設も。
黒崎ディレクターがEpisode7で気仙沼のカキについて書いていたが、
ここ浦戸諸島でも、生活の糧だった。


(変わり果てたカキ養殖施設)

外部との連絡手段がなくなり、島々は孤立化。

島民は小学校校舎を避難所にし
一丸となって耐えたという。
頼りの自衛隊も、島に来たのは数日後。

2週間たった3月末に
島民が続々と本土へ去っていった。

そこから、島民が徐々に減る
カウントダウンがはじまった。

すべての漁業者は廃業を口にしていた。
漁業で成り立っていた島で
漁業ができなくなることは
つまり島に人がいなくなることと同じことなのだ。

絶望の海に奇跡が残っていた。
島々が津波を緩衝し
種カキが生き残ったのだ。

この種カキをもとに
島民漁師の廃業を思いとどめようと
立ち上がった若者がいた。

3月11日の前日に
引っ越してきたばかりの脱サラ漁師。

その方法は、
全国からインターネットで
支援金を募り、その恩返しに
いつか海産物を還元するというもの。

島民漁師の廃業を防ぐため
脱サラ漁師は島とは似つかない方法で
形振り構わず資材・設備投資費用を
かき集めたのだ。

1ヶ月で、なんと1億2000万円以上。

その結果に戸惑い始めている島民漁師たち。
支援の恩を返せるのか。

島民漁師は、もう十分と口をそろえる。

しかし、小泉さんは、もっと資金を集めたい。

「島を元気にしたい。
改革派にならないといけないんです。
前と同じにするには、簡単です。
今後の島のあり方を考えるなら、
島を元気付ける方法が可能な資金が欲しい。
僕は、島のはぐれ者になっても、
漁業改革したい」

三陸の海に浮かぶ島で
独り資金繰りに奔走する脱サラ漁師。

将来の島を考える脱サラ漁師と
支援に報いたい高齢の漁師。

文責:制作部 佐々木将人

語られなかった東日本大震災 ~Episode 9~

『被害と支援の「線引き」は誰がする?

青森県・八戸市
全国でも屈指の水産都市で、特にイカは全国一の水揚げ高を誇る。
この時期、港には160トンを超える中型のイカ釣り漁船が、
ずらりと並んでいる・・・はずだった。

漁港としての歴史は古く、寛文4年(1664年)に八戸藩が
誕生した頃にまでさかのぼる。
また明治29年、昭和8年の三陸大津波でも大きな被害を受けていて、
街を見下ろす公園には津波被害を後世に語り継ぐための碑が飾られていた。


(「地震海鳴りほら津波」)


(津波をモチーフにしたモニュメント)

今回の「3・11」津波では1名が死亡。住宅約230棟が全壊した。
被害が甚大だった岩手・宮城・福島の3県と比べ、あまり報道される機会が
少ないものの、抱える悩みは形は違えど同じである。

***

僕が八戸市を訪れたのは4月19日、震災から1ヶ月ほど経った頃だった。
被害が比較的少なかった、とはいうものの200以上の住宅が全壊、
住民は避難生活を余儀なくされていた。
市内に設置された避難所は全部で4か所。
65人がまだ新たな生活基盤を探しながら、不便な暮らしを強いられる中、
突然、行政が通告したあること・・・。

「今月30日をもって4か所の避難所を閉鎖する」

あと10日ほどで避難所を閉鎖するから、ここから出て行ってください、
という一方的な「通告」だった。
あの日、突然仕事や自宅を失った人々に対し、あまりにも無慈悲な言い分だと
避難民は憤ったし、僕も同感だった。
何故、事前に説明や相談もせずに、このような形で避難民の神経を
逆なでするようなことをするのか、理解に苦しむ・・・とは思ったものの、
行政の言い分も取材してみる必要があるのも事実。
聞けば
「公営住宅や雇用促進住宅への入居(家賃無料)や、見舞金の支給が
すでに始まっているから」
とのことだが、行政はいつもそうやって一括りにしたがる傾向が強い。
避難民が65人「しか」いないと考えるか、避難民が65人「も」いると
考えるか、こんな時だからこそ、血の通った対応が求められるのではないか。

そう思い、避難民の皆さんの声を拾ってみる。

松坂光男さん(60)
「たった10万の見舞金で、新しい生活を始めることができるのか。
雇用促進住宅に入居が決まったからと言って、生活に必要なものは
こちらで全て購入する必要がある。
テレビもない、冷蔵庫もない、そんな状態で新しい生活が始められると
思っているのか。」

伊藤友工さん(62)
「長年勤めた建設会社をクビなったばかり。ようやく最近アルバイトを
始めたけど、今後生活していくには、お金がかかる。
ガス代や電気代はこっち負担だしね。ここに居られるなら居たいけど・・・」

川畑秀男さん(67)、節子さん(61)夫妻は4人家族。
「30日までにここを出て行く目途が立たないんです・・・」
そうつぶやく秀男さんの腕の中で、飼い犬のポンタがワン、と吠えた。

川畑さんは何とかして家族4人(+1匹)で生活を再スタートさせたいと
考えていた。
そのためにはペットを飼うことが認められていない公営住宅ではなく、
アパートか一軒家を借りるしかない。何とか入居可能な住宅を見つけたものの、
津波の影響で畳の貼り替えなどの作業が発生しており、どれだけ急いでも
入居は5月以降にずれこんでしまう、とのことだった。

川畑さんのケースは極めて特殊なケースなのかもしれない。
犬の1匹や2匹のことなんか構っていられない、ということなのかもしれない。
しかし、津波で全てを失った川畑さんたちから、さらに愛犬まで奪う権利は
誰にもないはずだ。
いつまでなら退去が可能なのか、避難民から可能な限り意見を聞き、
それに対応していく必要があるのではないか。

今回の震災では「心のケア」の重要性が叫ばれている。
一生に一度、経験するかしないかの悲惨な状況だからこそ、
我々メディアや行政は出来うる限り丹念に被害者の声に耳を傾け、
対応していく必要があるのではないか。
数の多少ではない、ましてや平均値でもない。
個々の抱える悩みや問題点が多いからこそ、きめ細かな取材や支援が
求められているとの意を強くした。
画一的な報道は絶対にしない、僕は、そう心に誓って次の取材地へと向かった。

***

八戸市は予定通り4月30日で、全ての避難所を閉鎖。
この日退去した避難民は10人だった。
震災直後は69か所、9257人が避難していたが、この日以降、
八戸市の公式発表は「避難民0」となった。

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

 

語られなかった東日本大震災 ~Episode 8~

『日常への道』

とある船大工の話。
海沿いに建てられた造船所が津波で跡形もなく流された。
造船所は明治創業。100年以上積み重ねてきた歴史が一瞬にして流された。

何もなくなった造船所に一人立ち尽くす船大工。跡取りはいない。
「先代らに面目ない」
その胸には60年間の船大工人生が去来しているのだろう。
語る船大工の言葉は、途切れ途切れだ。目線は自然と下へ落ちる。

と、そのとき。
船大工が何かを発見した。
よく見ると、それは海鳥の巣。
これを見た船大工は、興奮気味に僕に指示する。
「これを撮りなさい!」
「??」
「早く、カメラを回しなさい!」
僕は慌ててカメラを巣に向ける。
巣には卵が3つ。親鳥が片時も離れず、僕らを威嚇する。
そしてカメラを再び船大工へ。
「どうだ、撮れたか?おまえさんいいのが撮れたな!ハハハッ」
さっきまで神妙な面持ちだった船大工は一気に上機嫌になった。
通りかかる漁師を呼びとめ、巣を見せては、
「さっき見つけたんだ。いやあ、びっくりした!」と
何度も同じ話を繰り返している。


(この地はウミネコの産卵地として有名)

東京に戻り、収録したテープをチェックする。
何度見返しても取材した中で一番の笑顔だ。
眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、船大工の気持ちを考える。
きっと彼はあの後も、何人の人に同じ話をしたんだろうな。
食卓でもきっと話している。

彼らにとって本当に必要なのは、そうした日常の小さな感動なのかもしれない。
小さな感動の積み重ねで、被災者の元の生活が取り戻されていくような気がした。
植物が芽吹き、ゆっくりと成長してくように・・・。

そうした瞬間と出会えることができたのは何よりも嬉しかった。
できれば、そうした些細な出来事を、じっくりと取材してみたい。

文責:制作部 金澤佑太

 

語られなかった東日本大震災 ~Episode 7~

『「他人」から「隣人」へ』

「無償でお金の入ってこないボランティアは続かない」

宮城県・気仙沼市で取材した、とあるボランティア活動者の言葉だ。

彼らは静岡のプロダイバー。
震災ニュース映像にほとんど映らない、海中の支援を行っている。
気仙沼市の漁場に潜り、「海のミルク」カキの養殖施設に
からまった漁網やロープを切ったり、斜めに倒れ、海に燃料がもれた
船をまっすぐに起こしたりと、水中に潜らなければできない作業を行った。


(取材中に頂いたカキは、ぷりぷりで美味しかったが、わずかに重油の匂いがした)

彼らは、はるばる10時間ほどかけ、静岡・伊豆から
ダイビング用の大荷物を持って、車でやってきた。
宿泊費、食費はもちろん自腹。当然ガソリンも。
何十本もの酸素ボンベ代も相当なものだった。

支援するには、金がかかる。
身銭を切るわけだから、そう何度もボランティア活動を
することはできない。
当然、食べていくための日々の仕事もある。
ただしこういう視点で放送したニュースは、今まで見たことがない。
現に僕も「頑張ってボランティア支援するダイバー」という放送をした。

支援を受ける側にも、遠慮の気持ちが出てくるだろう。
気仙沼の漁場の人たちも、またダイバーを呼びたいとは
言っていたが、
「他人様に迷惑ばかりかけられない」
と心のどこかで感じているだろうと思う。

「ボランティア、GWを境に激減」というような
タイトルの新聞記事を見た。

「支援活動のイベント化」、大いにいいと思う。
「土日ボランティアツアー」、観光の目玉、
それで助けられる被災者がいる。
ただ問題は、継続しないということだ。
一度限り。

支援のための次の一手は何か、最近よく考える。

それは、「他人」ではなく、「隣人」になることではないか。

つまり、そこに「住む」ことではないか、と思っている。

文責:制作部 黒崎淳友