語られなかった東日本大震災 ~Episode 6~

『そんなもん』

「夜中に中国人が時計を盗むために手首ごと切っていくんですって。」

取材のために手配した現地ドライバーが真剣な顔付きで語り出した。
仙台市内にある彼のお薦めの牛タン屋で夕食を取っているときのことだ。

「空っぽの財布とか金庫が、ガレキを歩いてると目立つんだよね。」

震災直後から現地で取材をしているカメラマンもそれにすぐ反応する。

「ガレキの中を“顔の知らない連中”が歩いているんだそうです。」

ドライバーは淡々と言葉を続ける。
相撲取りのような体型とパンチパーマが特徴だが、
非常に物腰が柔らく好印象の持てる人物だ。

しかし、僕は黙ってその話を聞くだけで何も言葉を発しなかった。
関東大震災の際、井戸に毒が入れられたというデマのことが頭をよぎった。

「ほら、見てみなよ。」

翌日、取材先の南三陸町でカメラマンに呼ばれて見に行くと、
そこには扉の開けられた金庫があった。

さらに壊滅的な被害を受けた沿岸のガレキ地帯を歩いて行くと、
中身のない財布、カードだけが抜かれたETCの車載器などが転がっていた。

奥村ディレクターの取材後記にもあったが、場所は違えど
同じような被害が至る所にあるのだ。

「こんなときに火事場泥棒なんて…。」

誰がやっているのかはわからない。
しかし、実際にその“証拠”を目の前にして僕は言葉を失っていた。

「じゃあ、目の前で4千万円が入った金庫が開いてたらどうする?」

またしても僕は言葉を失った。

「そんなもんなんだって。」

「そうだ、確かにそんなもんだ」

声には出さずに相槌を打った。

文責:制作部 杉井真一

語られなかった東日本大震災 ~Episode 5~

『被災地の光と影』

連日、東日本大震災を取り上げるメディア。

メディアに携わる者として、
被災地で取材していると、ある区別があるということ。

それは、
全国に知らされる場所・人と
誰にも知られない場所・人という区別。

3.11以降、”南三陸”、”陸前高田”という地名を
聞かない日はありません。

3.11以前は、どこにあるかも知らなかった土地を
津波被害が激しく目に焼きつき、
そこに住む人には物語があるという理由で
僕らメディアはニュースの宝庫のように取り上げます。

一方で

被災地をめぐった中には、
映像的にも被害が見えにくく、かつ地理的に不便な場所で、
遺族でもなく、傷を負っていないように見える人々もいます。

そこで出会ったのは、
要介護4、寝たきりの女性、73歳と
軽い認知症の男性、72歳の2人の老夫婦。
いわゆる老老介護。
自宅は、震災の影響で、医者がいなくなった
宮城県気仙沼市本吉地区の穏やかな山奥にあります。

津波の被害はなく、ガレキとは無縁の世界。
被災した気仙沼市と言われなければ
よくある田舎の介護風景にしか見えません。

僕が訪れた4月中旬、
水道はもちろん、電気も復旧していません。
そのため、介護用ベッドやエアクッションは使えないため
背中には、じょくそう(=床ずれ)を発症。
症状が悪化すると、死に至ることもあるのです。
しかし、病院は近くにないのです。

支援が集まりだした気仙沼中心部の病院とは打って変わって
こうした在宅でじっと耐える患者もいるのです。
救命に忙殺されている病院の看護師には
「症状が悪化したら、救急車を呼んでください」と言われたことも。

普段でさえ、過酷な在宅介護。

山奥で派手な津波被害がないその生活に

メディアが来ることはなかったのです。

メディアに携わる者として、
僕らが前者を選ぶのは至極当然のことかもしれません。

僕ら伝える側の人間が代弁しきれない
場所や人がこの震災の中に埋もれています。

「これだけ惨いぞ、この現場
これだけ悲しいぞ、この人」

というインパクトではなく

「普通の風景の中にも
気に留めなかったあの人の言葉にも」

という透視のような眼差し。

この眼差しこそ、この震災を伝える上で
大事なことだと思ったのです。

僕は3.11以後の取材において
この眼差しを怠っていたのでないか。

僕は、この大震災をインパクトの獲物として受け取るのみで
そこに住む人の生活を伝えきれてない。
まだまだこの震災の本性を伝え切れていないのではないか、
そう思うのです。

大きなことを大きく見せるのは、映像を見れば十分です。

小さなことを小さいことと捉えている
自分の未熟さを身にしみて感じています。

文責:制作部 佐々木将人

 

語られなかった東日本大震災 ~Episode 4~

風を”撮る”

4月某日。羽田空港から花巻空港へと向かう。
震災に対応して、JALが飛ばした臨時便だ。
フライトは約1時間、短い空の旅。
これから出会う景色を想像しながら、
また、眠気に身を任せながら、時間を過ごす。
ゴールデンウィーク直前だけあって、機内は満席だ。
この人たちは、どんな目的で向かうのだろう?
被災した親戚を慰問?ボランティア活動?取引先との打ち合わせのための単なる出張?・・・先入観を持っている自分の想像力の乏しさに、ため息が出た。

今回の取材の目的地は岩手県釜石市
被災したある老婆の取材だった。
予定時刻に花巻空港に到着。タクシーに乗る。釜石まで約2時間、運転手から被災地の情報を得ようとするが、大した情報はない。

車が釜石市へ入ると、大きな製鉄所が見えてきた。
屋根には、『魚のラグビーの町、釜石』と書かれている。
しかし、特に激しい被災箇所はない。
痺れをきらした私は、タクシーの運転手にいつになったら被災現場に着くのかと問いかけようとした。
すると、釜石駅を過ぎた瞬間、景色が一変した。車の車窓のフレームが切り取ったのは、まるで建物が崩れる瞬間を連続写真で撮影したかのように、徐々に崩れていく民家の様子だった。
瞬間的に窓を開けた。ルームミラー越しに運転手が露骨にいやな顔をする。
なんとも言えぬ異臭が車内に充満した。そのとき初めて、被災地に来たと実感した。

被災地に足を運んで、初めて知ったこと・・・
それを捕らえたのは目でも耳でもなく、嗅覚・鼻だった。
撮影と録音という行為を仕事とする私は、現地に入って早々、撮影するという行為の未熟さを痛感した。
映像という表現の枠の中で伝えられるべきものは確かに存在するし、
新聞やラジオなどよりもダイレクトに届くこともあるだろう。
強い画(という表現は好ましくないかもしれないが)であれば、伝わるという映像信仰を抱いている。しかし、映像に捕らえられないもののほうが人間の肉体には伝わるし、それこそ真実なのかもしれない。映像という大きな武器を手にした私は、大事なものを見落としているのではないか・・・。

釜石の町の臭いを嗅ぎながら、そんなことを考えた。
そしてその思いを胸に、カメラを回し始めた。
強い画ではなく、釜石の風がカメラに映ることを祈りながら・・・。

文責:制作部 金澤佑太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 3~

「震災・・・本当に“怖かった”こと」

ない。
なにもない。
そこは数百を超える人々の、活気あふれる生活があった場所のはず、だった。
が、僕の眼前に広がっていたのは、瓦礫の山、山、山。
まるで空爆を受けたかのような・・・、そう、まさに戦場さながらの光景だった。

殆ど原形を留めていない家屋。
ビルの屋上に乗り上げた船。
デコボコになって、ぺしゃんこに押しつぶされた車。
子供がおもちゃのブロックで遊ぶのに飽きて、放り出したようにも見えるビルの数々。
全てが、滅茶苦茶に破壊されつくしていた。

宮城県・石巻市
死者2964人、行方不明者約2770人。住宅約2万8千棟全壊。(5/20現在)
地震という、そして津波という、人知を超えた自然の脅威をまざまざと見せつけられた僕は、ただそこに立ち尽くすことしかできなかった。

***

新潟県中越地震、スマトラ島沖地震(共に2004年)など、数々の震災や津波の現場を取材してきた。もちろんそれ以外の現場取材も含めて、テレビディレクターとして経験は豊富な方であるという自負がある。
新潟では震度7を記録した町を目指し、豪雨の中を飴のようにひん曲がった道なき道を何時間も歩いて、被災者の声をいち早く取材したし、スマトラ島沖地震では、死体がゴロゴロと転がる地獄のような現場も取材した。必死になって行方不明の家族を探す父親、母親の想いにも触れた。
そんな「極限状態」とも言える現場を「踏んで」いたのにも関わらず、今回の現場では本当に足が震えてしまった。いや、竦んだ、と言ってもいいだろう。
これは比喩表現でも何でもなく、本当にガクガクと震えていた。
自分の目の前の光景が、かつて足を運んだことのある石巻市と同じだと、俄かには信じられなかったということなのだと、今では思う。

しかし、現場を見た瞬間、頭の中は真っ白になった。
恥を承知で告白すると、何を取材すれば良いのかも思いつかなかったし、全身から力が抜けて、一種の虚脱状態に陥ってしまったのも事実だ。
いつもの自分ではないような頭と体が何とか動き出したのは、その光景を目にしてから10分ほど経過したあとだっただろうか・・・。

このあと僕は青森県をスタート地点として、何者かに爆撃されつくしたような三陸海岸沿岸500キロを延々と取材し続けることになるのだが、その話は、また別の機会に譲る。

***

こういった大災害の時に見えるもの・・・、それは人間の「本性」だと常々思う。
危険が迫っているにも関わらず、警報を鳴らし続けた、など
自分の身を犠牲にしてまで他者の命を救う・・・。
そういった「美談」は見る者、聞く者を感動させるし、新聞・テレビで毎日のように繰り返し報道され続ける。
しかし、なかなか報道されない「本性」もある。

浅蔵角子さん(仮名)は、そういった人間の「本性」に恐怖した一人だ。
石巻港のすぐ近くに住んでいた浅蔵さんは、あの日、命からがら津波の猛威から逃れた。奇跡的に家族全員の命は助かったものの、津波は浅蔵さん一家から新築の家を奪っていった。
周りの家が殆ど跡かたもなく流された中、1階部分はボロボロになったものの、2階部分にはかろうじて人が入れる状態だった、「新築」の浅蔵さんの自宅。どこに避難していいかも分からない中、その夜は、かつて2階だった場所で一夜を明かすことにしたという。

3月11日、まだ東北は冬。
その日も寒い夜がやってきた。
しかも昨日までとは違う、完全なる、闇。
電気もガスも水道も、もちろん食べる物もない。
ひもじく、不安な夜を過ごす浅蔵さんの耳に聞こえてきたのは、

「ガシャン!ガシャン!」

とガラスを割るような音だった。

いつもと違う、静かな夜だけに、否応にも耳は惹きつけられる。
異様な物音が近づいて来る中、時折笑い声のようなものも混じっているような気もしたという。
開け放たれた窓から、暗闇にじっと目を凝らす。
目が慣れてきたのか、うっすらと何者かの姿が浅蔵さんの目に飛び込んできた。

バールを手にした3人の無法者たち・・・。
その瞬間、浅蔵さんは全てを理解し、そして戦慄した。
自分と同じ被災者が、これまた同じ被災者の家を荒らして回っているのだ。
誰もいない家々を物色して金目のもの等を漁る無法者たちの目には、狂気が宿っているようだった、と浅蔵さんは語ってくれた。

「見つかったら殺される!」
津波から助かったのに、ここで命を落とすことになるのか・・・そう、恐怖に慄いたという。
幸いにも、無法者たちは浅蔵さん宅に侵入することはなかったというが、再び夜が明けるまでの数時間が、無限にも感じられたであろうことは想像に難くない。

「人間、極限状態になると、他人のことなんてどうでも良くなるんですよ。
あれは、もしかしたら私の姿だったのかもしれませんし・・・。」
浅蔵さんの言葉が、胸に響く。

***

自分が同じ極限状況に置かれた時、狂気に走らないという保証があるのか。
そう、自分に問いかけてみた。
もちろん答えは出ない。
いや、出せようはずもない。

今回の東日本大震災の取材が、
自分という人間が何者なのか、
テレビディレクターとして何が出来るのか、何をするのか・・・。
そう、何度も何度も、自問自答を繰り返す旅になろうとは、
この時はまだ想像だにしていなかった。

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 2~

「仮設住宅を待つ人々」

宮城県仙台市から東に約50キロ、津波で壊滅した石巻市のさらに東にある、
牡鹿半島。 仮設住宅の建設現場を取材するため、仙台を車で出発した。

「ゴールデンウィークも休日返上で仮設住宅を作る現場」
という企画の取材。
仮設住宅建設は遅れているため、
GWも休みなしで急いで作らなければならないのが現状だ。

海岸に出たと思ったら、数分後には急な坂道をくねくね登り、
狸でも出そうな山道に入る。
石巻市から牡鹿までの細い1本道は、高低差が激しく、蛇行しているため
走りずらい。さらに、地震のためか至る所で道路や崖が崩れ、かなり危険だ。
がれき撤去や仮設住宅建設の重機が走るには、大変な苦労を伴うだろう。
そのためか、海岸沿いの開けた場所、おそらく集落だったところでは、
まるで津波直後のような状態で膨大ながれきが残っていて、
取材日は震災から2ヶ月近くになろうとしていた日だったが、
道路が通れる最低限の処理しかしていないようだった。

仮設住宅建設の遅れを、「政府や自治体の怠慢」理由に批判することは簡単だ。
が、なぜ遅れているのか、その地域の特性と照らし合わせて検証する放送は
ほとんど見たことがない。

そんな海沿いの集落の一つが上の写真の場所、
十八成浜(くぐなりはま)。

仮設住宅取材の帰り道に立ち寄ったこのガレキの山の集落で、
一人のおばあちゃんと出会った。

川端道子さん、79才。 川端さんはいわゆる2階族。
1階は津波にのまれ、骨組みしか残っていない。かろうじて2階部分は無事で、
そこに住み続けている。
下の写真が、川端さんの家。食事の配給先から、ガレキの道を通り抜け、
家に向かう。

泥を掻きだした跡が残る1階を進み、階段を苦労して上る。
電気も水道も通っていないこの半壊した家に住み続けるのは、
もちろん大変だし、危険だ。
大きい余震などあればきっと簡単に崩れてしまうだろう。
1ヶ月ほど前から仮設住宅を希望しているが、当選の報告は
まだないと言う。
この地区では、入居希望者数に対して仮設住宅の数が追いついておらず、
抽選で選ばれなければ入居できないことになっている。

生活、命が「運」に左右される現状。

取材日から3週間あまりが過ぎた。 あのおばあちゃんは無事だろうか。
電話連絡を取ることもできない。仮設住宅には移れたのだろうか。
そして、このような仮設住宅を待ちながら不安な毎日を過ごす人達は
まだまだ沢山いる。

文責:制作部 黒崎淳友

語られなかった東日本大震災 ~Episode 1~

「共通の思い」 

震災から2ヶ月経った埼玉県の避難所。
福島県双葉町から避難して来た被災者たちの反応は
1ヶ月前に来たときと比べ、明らかに違っていた。

声をかけた人の多くは足を止め、しっかりと話をしてくれる。
ところが、カメラでの取材をお願いした途端に皆が首を横に振り出す。

「カメラに答えたら、みんなから“吊るし上げ”られちゃうからさ。」

辺りを気にするように小さな声で
以前は取材に応じていたというおじさんが僕に教えてくれた。

どうやらテレビ番組に出ると、
それを観た周りの人たちから厳しい追及に遭うというのだ。

話を聞いた被災者の中には原発関連で働いていたという人も多く、
原発批判については複雑な思いがあるのだろう。

「何、タレント気取ってるの」

「そう言われてからは取材には応じないようにしている」と
何度かテレビの取材に答えたというおばちゃんは苦笑いをした。

前回にこの避難所を取材したのは移って来て間もないときだった。
そのときも取材に応じてくれる人は決して多くはなかったが、
他の被災者の目を気にしてという感じではなかった。

しかし、今避難所では些細なことをきっかけにケンカが起きているという。
生活への不安ややり場のない怒りも人々の言葉の端々から感じられる。

「都合の良いときにしか来ないメディアの取材になんか答えたくない」

僕自身が取材される側に立ったなら間違いなくそう思うだろう。
しかし、彼らの話を映像に収めるためにここに来ている。

被災者の話に悠々とペンを走らせる新聞記者たちを横目に
僕はひたすら声をかけ続けた。

結局、この日にインタビューができたのは3組。

「やっぱり早く自分の家に帰りたいのが一番の希望なんです。」

あと2年で80歳を迎えるというおばあちゃんが
声を震わせたわずか10秒ほどの言葉。

この希望だけは被災者に共通した思いだ。

文責:制作部 杉井真一