取材後記エピソード0

『テレビ的な正論』

当初より、この回を書く目的は、

「ADたちの、311から1年シリーズ取材後記を読んだ感想文を載せること」

だ。
しかし、読んでくれたある人のある感想を聞いた時、
ひとつの思惑が生まれ、というか昔から抱いていた考えが再燃し、
僕の頭から離れなくなった。

しかしそれは後に置いておき、まずADから寄せられた感想を並べたい。

ADぱっつん
『テレビには伝える事しかできないし、伝え続ける事が使命である』の感想

「テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように
報道し続けていくことに尽きると信じている」と奥村ディレクターは言う。
このような考えを持って一年後の3.11を迎えたテレビマンはどれだけいたのか。
「もう去年の惨事を思い出したくない、またはそこまで長く見たいと思わない
(震災特番がこの日放送されていたため)と思う視聴者もいるよね。
でも震災から一年目を迎えた次の日の朝のニュースで、
これらのネタを少ししか取り上げないのも変だよね。」
今年の3月11日、私はとある朝の情報番組のスタッフルームにいた。
次の日のOAを控え、曜日チーフが発した言葉に、違和感を覚えつつも、
それもそうだなと思ってしまう自分がいた。
一年前のあの大惨事があった一年後の3月11日、新聞各紙、一般紙もスポーツ紙も
震災ネタが多く、明るい記事は多くなかった。
海外アーティストが被災地を訪れたり、某アイドルグループがイベントを行ったり、
ネタは多いが内容は明るくない。
次の日のOAで取り上げる新聞記事を選ぶディレクターの様子を見ていても
震災はもう過去のことであり、関心が薄れてきているように感じることもあった。
テレビは第4の権力と言われるだけあって、その影響力、世間への浸透力も高い。
そのテレビに関わる人々が被災地へあまり目を向けなくなっていったら
徐々に3.11は忘れられていくのだろうか。
それでも今年は映像業界を華やかにするのに欠かせない多くの芸能人が
被災地を見舞い、イベントを行った。
その芸能人が旬な芸能人であればあるほど、または大物であればあるほど、
メディアは彼らの行動を取り上げないはずもないし、視聴者は彼ら見たさに
そのネタに注目するような気がする。
結果としてこれは人々が被災地への関心を持ち続ける口実になるのかもしれない。
ただ報道をするよりも、彼ら芸能人の力を借りてこのテーマを取り上げることで
人々が3.11を忘れないきっかけになるのかもしれない?と
某アイドルグループの1人が大袈裟なくらい泣いている映像を見て思った。
芸能人の存在意義の一つが分かったような気がする。
シンディー・ローパーが被災地に対して発言している会見の書き起こし作業をしながら、
シンディーの熱い発言を聞いていて3.11を忘れてはいけないなと
思ってしまったミーハーな人間の1人は私だ。

奥村Dの取材後記には、ADヨネ子からも感想が寄せられた。

美談は報道の敵かもしれない。
報道が拾い上げなければならない「無念」は美談などとは縁遠く、
美談は事の問題点をうまく隠す力を持つ。
永遠に「無念」の原因を葬り去ることができるのだ。
町長は助かったはずの命だ。
奥村ディレクターによる取材で初めて推測できたことだが、
地震直後の職員らの行動は津波被害を十分に想定していたうえでのものではなかった。
人命救助や職務に忠実であった彼らの思いが報われたとは言いがたい。
防災マニュアルという過去の教訓が生かせなかったのは、なぜなのか。
ここから初めて私たちは「疑問」をもち、「無念」を拾い上げる
スタート地点に立てるのではないかと思う。
「震災報道」として多くのディレクターや記者が被災地で取材をしてきたが、
亡くなった人の声に耳を傾けることは難しい。
「無念」が晴れることはないし、きれいに整理できることもない。
これを踏まえて取材をしていきたいと思う。

ADヨネ子
『「2万人近く」と「14人」』の感想

数字とは恐ろしいもので、ある一定数を超えると独り歩きして
私たちがつかめないものに変化する。
ひとつひとつが霞んで、2万、3万という塊でしか受け止められなくなる。
東日本大震災によって私たちは「2万人近く」の命を一瞬で失った。
私もこの「2万人近く」をどう受け取ればよいのかわからない。
震災後、毎日膨らんでいく死者・行方不明者数をただぼーっと見つめた。
これは1995年の阪神淡路大震災直後の記憶と同じだった。
朝刊トップの見出しには連日、死者・行方不明者の数が並んだ。
数字は世界共通のコトバだが、その人の顔も声も、人生の何一つ表現することはできない。
共通の認識をもつことはできても、数字が伝える情報量は
私たちが思っているよりずっと少ないのではないだろうか。
杉井ディレクターが偶然足を向けた中学校で見つけた、
学校の机とメッセージの方がずっと伝わる情報は多い。
14人の呼び名やさまざまな字体、新しい机なのに錆びついた脚、
そしてそれに足を止めたテレビクルーがいる。
整理できないものこそが、私たちが直面している現実なのだと感じた。

ADアカメン
『語り部』の感想

全体の取材後期を通して読んで感じたことは
捕らえようの無い大きな現実に読んでいる人たちは
何をどう感じればいいのだろうということだ。
それは見る人それぞれ自由に捉えればいいことだと思うが
僕の目線からすると単純に「どうすればよいのだろう」と思ってしまう。
当事者としての意識が無いのだ。
だからTVを通した現実を現実として捉えることは難しい。
やはり自分で体感するほか無いのかと思うが
下手に手を出すと中途半端になってしまう。
ボランティアならばいいが出来ることは限られている。
TVの怖いところは報道というある種の「正義」という権利が
ディレクターに舞い降りた時、それを行使することだ。
映像で被災地を伝えること、現場の緊張感、センチメンタリズム、
それぞれのディレクターは何を伝わんとするのか、
この非常事態に美談や悲劇を伝える意味をディレクターは
どの時点で気づき苦しんだのだろうか。
放射能を恐れなかったのか?打ちひしがれる感覚は?
その感情を振り払うかのように再度訪れたい、会いたいと思う
その気持ちはどこから沸いてくるのか?
その気持ちを映像にどのようにして収めたのか、あるいは
収めきれなかったのかを僕は直接聞きたい。
「仕事で頼まれたので」という理由以外を僕は望んでいる。

取材後期の中からひとつ選ぶとしたら、黒崎Dの「語り部」だ。
一人の少女の記憶をメディアと呼ぶ。
彼女はなぜ語るのか?語るという行為は彼女にとって
どのような意味を成しているのか?そこが一番大切なところだ。
その尊い行為を機械的なメディアというひとつのツールとして呼ぶことに
少しばかり疑問を抱く。
僕はその少女がいつか語り部を辞める時が来ると思っている。
忘却である。
その記憶をとどめるのが我々メディアと呼ばれる機械的な職人集団であってほしい。
人間はいつか死ぬ。百年という単位が人間にはあると思う。
百年前の人間が東北地方に起こった地震の記憶を留めるために
書物や標石を立てた。
その記憶は思いのほか伝わらず東日本大震災で多くの人々が命を落とした。
百年という単位の中で記憶は風化し見えずらくなる。
百歳を前になくなる人間はひとつ下の世代に伝言を残さなければならない。
しかしそれは伝言でしかなく、言語の響きだ。
百年前にメディアは存在しなかった。今は多くのメディアが存在する。
その文明を持った世代が百年後の私たちの世代だ。
この違いがどのような未来をもたらせるのか百年を振り返る時期が
世界にやってきたのかもしれない。

「あの日を忘れないために、テレビができることは何なのか」

テレビに携わる者は、必ずこの命題を頭に設定したと思う。
ADたちも、取材後記を書いたDも、そして僕も、この、
ある意味疑いようのない、間違いのない言葉を頭の片隅に置いているはずだ。

しかし、僕に投げかけられたもうひとつの感想が、石となり、
僕の脳に波を立たせた。それは

「復興、や回復への解決策(方法論)こそが最も重要で
TVもそのレベルに参加していくしかないと思います」

という、感想。

テレビは、忘れないために放送し続けるだけでいいのか?

我々は、撮り続けていく事しかできないのか?

忘れないことが、最終地点なのか?

すでに起こった出来事を撮るのではなく、何かを引き起こす主体になれるのか?

過去、現在ではなく、未来を作り出す事が、テレビにはできるのか?

まず僕に必要なのは、「テレビ的な正論」を認識した上で、
巧妙にそのピットフォールを回避する事、だった。

こんなことを考えている人が他にいたなら、ぜひ話をしてみたいと思う。

終わり

語られなかった東日本大震災 ~Episode 25~

『語り部』

宮城県南三陸町。

雪の舞う日、僕は、震災の記憶と向き合う一人の少女と出会った。
彼女の手にしたノートには、地震に襲われた出来事や、その時の心情が、
10ページにわたって、手書きの文字で綴られている。
それを、ボランティアなどに読んで聞かせる「語り部」を続けていた。

「3月11日、2時46分、5時間目の真っ最中でした。
いつもと同じように、机の下に隠れました。
でもどんどんどんどん揺れが強くなって、とても怖かったです。」

この一節から始まる、震災の記憶。
彼女の声に耳を澄ましていた、東京から来たボランティアたちの目には、涙があふれていた。

彼女もまた、メディア、だった。
何も、テレビや新聞だけの特権ではない。
被災者一人一人が、語り部、である。

きょう、テレビ各局が追悼番組を放送した。
記憶があふれた。
「あれから1年」はもう終わる。
だけど、明日も、あさっても、「被災地」である。
宮城県、岩手県、福島県、青森県、山形県、茨城県、栃木県、群馬県、千葉県、神奈川県、長野県、静岡県…。
「被災地」が「被災地」と呼ばれなくなる日が来る日を願う。

「あの記憶をだんだん忘れてしまう自分がいる。だから、このノートを読む事で思い出す」

あの語り部の少女は、僕にこんなことをつぶやいていた。

僕たちメディアもまた、だんだん忘れていく。
1年、2年、3年…。「区切り」で、ふとまた思い出す。
「区切り」なんてないのだけど。

メディアもまた、「語り部」であることしかできない。
声を拾っていくことを、続けていかなければならない。

そして、あの少女にも、語り続けてほしい。
地元のみんなが、伝えたい、という思いを、持ち続けてほしい。
僕は、そこにレンズを向ける。

取材後記「語られなかった東日本大震災」~震災から1年~は、
この記事が最後です。
だけど、僕たちは、書き続けます。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
語るきっかけをくれた、被災地の皆様、ありがとうございました。

文責:制作部 黒崎淳友

語られなかった東日本大震災 ~Episode 24~

『ありがとう』

おにぎり。

ちなみに手作り。
実はこれ、取材中に相手からいただいたものだ。
帰りのバスの中で食べた味は、とても美味しかった。

岩手県陸前高田市から始まり、気仙沼市、石巻市、仙台市、南三陸町…
1年間被災地を取材してきた。
いろんな人に出会い、たくさんの貴重な話を放送してきた。
その中で僕が忘れる事ができないのは、取材相手からもらったもの。
おにぎり、缶コーヒー、揚げ串、牛タン、おでん、かまぼこ、いちご…。
「もってけもってけ」「遠慮すんな」
シーンの一つ一つ、言葉を鮮明に覚えている。

「被災者からいただく」ということは、どうも、悪い。
被災されているわけだから。ただでさえ自分の生活が大変なのに、
数日の仕事のおつきあいで会った僕たちに、身銭を切らせている。
ただただ、悪い、と思った。
この内容自体を書くのも、気が引けたのも事実だ。

テレビ取材をお願いする上では、基本的にお金のやり取りはしない。
僕たちは、取材相手の忙しい一日の中で、打ち合わせの電話の時間をもらい、
仕事の時間を削らせて、カメラの前に立たせている。
もらいっぱなし、なのだ。
さらにその上に相手からいただきものをするのは、何かを返したい、という気持ちに駆られる。

だから、放送日を迎え、無事に映像を流すという事は、一つに、
手紙のようなものだと思っている。

ありがとう。

放送をすることは、相手にとってお返しにならないかもしれないが、そう言いたくなる。

政治の裏側をあばく。世界情勢を知らせる。困っている少数の意見を強調する。
報道には、いろんな面がある。
マスメディアは、国民が、知る機会を得るために開発した装置だ。
振りかざすことができる剣は、少し重い。
一方で、レンズがとらえない、放送には決して反映しない、小さな小さな、取材相手とのやりとりを、
大事にしたい。
被災地と1年間対峙して、僕は改めてそう思った。

「なんだか寂しいね」
今月、南三陸町で密着した一家の一人から、別れ際に言われた一言だ。
その時カメラは回っていない。
たった2日間の取材だった。
心底、嬉しかった。
僕も寂しかった。また会いたい、と思った。
この人たちが、本当に助かってよかった。

僕たちマスメディアにできるのは、被災地に思いを馳せ続けること、だ。
レンズの外側でくれた贈りものに、僕はお返しをしなくてはならない。

 

責:制作部 黒崎淳友

語られなかった東日本大震災 ~Episode 23~

『テレビには伝える事しかできないし、伝え続ける事が使命である』

あれから1年。

夏が来て、
秋が来て、
雪が降った。
そして冬が過ぎ、東北の地にも、まもなく春がやってくる。

この間、テレビをはじめとしたマスコミを巡る環境は一変した。
原発報道に端を発したマスコミ不信はかつてないほどに高まり、
ネット上にはあちらこちらに「隠蔽」「マスゴミ」といった言葉が踊る。
記者クラブ制度の弊害!と声高らかに叫ぶ者があれば、
テレビそのものを「くだらないもの」と一刀両断、
テレビを見ない宣言をする者、実に様々である。
お茶の間の中心でなくなって久しいテレビは既に娯楽の王様でもなく、
真実を伝える「箱」でもない。

しかし、そんな状況にありながらも、テレビディレクターである僕にとって、
この一年間はテレビの持つ力を再認識させられた一年間であったといえる。

テレビの力・・・、それは遠くに離れている人たちに対して、
一度に、同時に、そして大量の情報を瞬時に伝達できるということに他ならない。
単純計算すると視聴率1%で130万人。
世界で最高の発行部数を誇る読売新聞でさえ1000万部だというから、
テレビで視聴率10%を獲得すれば、読売のそれをゆうに凌ぐ計算となる。
あくまで理論上の数字でしかないが。

どこそこの避難所で食糧が足りないと放送されるや否や、
日本全国から食べきれないほどのおにぎりやパンが届く。
電話もメールも通じず、一切連絡が取れなかった親戚を
テレビ画面を通じて発見する。
もちろん、食糧が余りすぎた等、支援物資のミスマッチングを解消するために
ネット、特にソーシャルメディア(Twitterなど)と呼ばれるものが役立ったのも事実だ。
きめ細かな支援の妨げになる、という理由でテレビが批判されたこともあった。
しかし、あの時、僕たちにできたことは被災地の現状という「情報」を日本中に発信し、
被災地にフィードバックすることだった。
「瞬時」に「大量」の「情報」を「投下」することによって解決された問題も
非常に多かったように思う。
そう、「情報」は一時期、東北の人々にとって最大の「救援物資」だったとも言える。
しかし、そんなテレビの「画一的」な報道は、時に真実から人々の目を
反らすことに繋がったのもまた、一つの事実である。

岩手県の大槌町を訪れたときのことだ。
雨が降りしきる現場は、まだあちこちで煙が上がっていた。
車が燃え、家が燃えていた。刺激臭が鼻をつく。生きているものなど
そこには存在しないかのような光景・・・まさに地獄絵図が広がっていたのである。

自衛隊員が悲痛な面もちで、行方不明者の捜索にあたっていた姿は今でも忘れられない。
この岩手県でもっとも被害が大きかった街のひとつで僕は
テレビ報道のあり方について深く考えさせられることになった。

死者・行方不明者は1,282人にものぼり(3/2現在)、
特に町役場の職員は全139人のうち33人が死亡。
役場は津波の被害を受け大破し、復旧されることなく放棄された。
被害者の中には町長だった加藤広暉さんも含まれている。享年69だった。

僕がこの町に足を踏み入れたのは、復興の要となる町役場が機能不全に陥ったことによって
なかなか支援が進んでいなかった時。
住民の不安と疲れがピークに達していた頃だったと思う。
そんな現実がある一方で、加藤町長の死が「美談」としてマスコミで報じられ始めてもいた。
町民を守るために津波に襲われながらも最後まで役場に残って
町民の安全を優先させた、といった内容だったと記憶している。
確かにそうなんだろうと思う。
加藤町長の勇気ある行動によって助けられた命もあったはずだ。

しかし、僕はこの報道に若干の違和感を感じていた。
というのもマスコミ、特にテレビはこの手の話が大好きだ。
自己犠牲を省みずに行動し、命を失う。
貴き犠牲の上で生まれた新しい命・・・といった類のものだ。
誤解を恐れずに言えば、絵に描いたようなお涙頂戴モノを好むのが
テレビというメディアなのである。
さらには「視聴者のみなさんは、こういうお話が好みなんでしょ。」
などという、どうしようもなく上から目線で、
視聴率欲しさで番組を制作している輩がいるのも事実である。

町長の「美談」に目を奪われていて、見えなくなっている事実があるのではないか。
しかし一方で、職員の2割を超える人々が亡くなったというのも、また偽らざる現実だ。
震災が発生してから、役場が津波に飲み込まれるまでの30分間、
何が行われ、何が起きていたのかを取材して検証するのも、
我々の大事な役割なのではないか。
見方によっては地味な「ネタ」だけに、ボツになるかもしれない、
放送されることはないのかもしれない。それでも僕はカメラを回し続けた。

取材を続けていくと、加藤町長や役場の職員たちは、震災発生後、
役場の前に机などを出して災害対策本部を作ろうとしていたことが分かった。
老朽化した庁舎では危険だ、と判断したかららしい。
これまでに三陸を襲った津波被害の教訓では
「とにかく高いところへ逃げろ」とされていたにも関わらずだ。また防災マニュアルには
「庁舎が使用不可能になった場合は(高台にある)中央公民館に本部を置く」
と記されている。
「町長さんたち、何やってるんだろう。早く逃げればいいのに。」と
山の方へと避難しながら不思議がった町民もいた。
それなのに、なぜ?
取材によって浮かび上がった断片を繋ぎあわせてみると、おそらく真相はこうだ。

「加藤町長以下職員を含めて、防災マニュアルが徹底されていなかった。
津波に対する危機意識もあまりなかった。」

町の防災無線が「高台に避難して下さい」と呼びかける中、職員たちは
対策本部の会議を行うための机を並べていたのである。
結果、猛然と襲いかかる津波に気付いたときには、時既に遅しの状況であったことは想像に難くない。
次第に姿を大きくしていった「黒い固まり」は、
役場の屋上へと逃げようとする職員たちを次々と飲み込んでいったと、
目撃者は語っている。

もし加藤町長や役場の職員たちが防災マニュアルに従って
高台の中央公民館に対策本部を作ろうとしていたら?
もし先人の知恵が、彼らを高台へと導いていたら?
もっと危機感を持っていたら?

もしかして、亡くなった命の何割かが救われたかもしれないのだ。

起きてしまった自然災害は、もう元へは戻せない。
町が元の姿に戻ったとしても、失われた命はかえってこない。
時計の針を戻すことが誰にもできないように。

しかし、この悲しい教訓を取材し、放送することで、
また起きるかもしれない地震や津波の被害から救うことができる命があるかもしれない。
そしてそれができるのが僕たちの仕事でもある。

あの時、何が起きていたのか?
どうして命を落とすことになったのか?

耳障りのいい「美談」の裏にある事実に眼を背けることなく、
様々な角度から検証し報道していく。
そのための「トンボの眼」はディレクターにとって最も重要な能力だと痛感する。
たくさんの取材テープの中から、今、必要な情報、後世に語り継いでいくべき
貴重なひとかけらを探し出して放送し続けていくこと。
それがあの現場に立った僕たちテレビディレクターに課せられた使命なのだと、今は考えている。
すでに見放されたといっても過言ではないテレビが再び信頼を勝ち取るためには、
愚直に真実を見つめ、伝え続けていくしかないのだと思う。

去年8月に行われた町長選挙では元総務課長の碇川豊さんが当選し、
復興に向けて新たなスタートを切った大槌町。
どんな焼け野原からでも、人間はいつも立ち上がってきた。
必ずや大槌町も、再び、笑顔あふれる町に復興するに違いない。
人間の知恵と勇気がそれを可能にするのだということは、歴史が示すとおりである。

まもなく3月11日がやってくる。
いまテレビや新聞紙上では「あれから1年」といった言葉が踊っている。
しかし、それは単なる通過点に過ぎない。
東北の人々にとっては3月9日も、3月10日も、3月12日も、
そしてその翌日もそのまた翌日も、辛く苦しい日々が続くことも、また現実である。
テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように
報道し続けていくことに尽きると信じている。

 

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

 

語られなかった東日本大震災 ~Episode 22~

『「2万人近く」と「14人」』

先日の3月4日、僕は宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区を取材で訪れていた。
予定していた撮影を終え、
最後にこの地区を一望できるような場所はないかと
ある中学校へ足を向けた。

「誰かいるか見てきます」

職員に撮影許可を取ろうと、僕は車から降りて校舎に入った。
しかし、海から5kmほどしか離れていない中学校の内部は、
既にがれきは片づけられているものの、
窓ガラスは割れたまま。人の気配など感じられない。
避難所になっていたときの張り紙はまだ残されたままだった。

探すのを諦めて戻ってくると、カメラマンと音声が車から降りていた。
姿を見つけると、2人は門の近くに置かれた机を、静かに見つめている。

しばらくの間、机に書かれたメッセージから目を離すことができなかった。
陽は既に傾き、風が冷たく吹き付ける。

隣の机には、花や供え物のお菓子が置いてあった。
花はまだ新しく、今でも人が訪れていることがわかった。

「この中学校だけで14人も亡くなったんだ…」

心の中でつぶやく。
振り向くとカメラマンの目にも涙が溜まっていた。

「震災から1年でたくさん報道されても、東京の人は2週間もすれば忘れてしまうでしょ」

中学校へ立ち寄る前に訪れていた、仮設商店街。
40代前半だろうか、働き盛りにみえる男性店員は、こちらがカメラを止めた後にそう呟いた。

僕はなんと答えていいのかわからず、曖昧に返事をした。
すると男性店員は素早く目を逸らした。
僕に不満をぶつけても仕方がないとでも思ったのだろうか。
実のところ、被災地を訪れたのは、去年10月以来初めてだった。
5ヶ月の間震災前と変わらぬ生活を送ることで緩んでいた僕の心に、
男性店員の言葉は静かに突き刺さった。

東日本大震災からまもなく1年。
死者1万5854人 行方不明3203人 (2012年3月8日現在・警察庁まとめ)

「2万人近くの死者・行方不明者」

たしかに言葉でまとめれば、こうだ。

メディアは、東日本大震災の被害の大きさを、これでよく表現する。
しかし、恥ずかしい話かもしれないが、
僕はこの「2万人近く」という数字を見ても、別に悲しいとは感じない。

しかし、机に書かれていた「14人を忘れないで」という言葉に、僕の胸は痛んだ。

「忘れないでほしい」

あの小さな机の上にも書かれていたこの言葉が、被災者たちの一番の願いなのかもしれない。
今、我々メディアはこぞって「震災から1年」という節目を報道している。
それ自体は決して悪いことではない。
しかし、結局は一過性の「お祭り」に過ぎないのではないか。

あの中学校で命を落とした「14人」がいたことを忘れない。
それが今の僕にできることだ。

文責:制作部 杉井真一

語られなかった東日本大震災 ~Episode 21~

『首都直下地震 震度7』

2011年3月11日…
東日本大震災発生からまもなく1年が経とうとしている。
そんな中、
文部科学省は首都直下地震に関する新たな数字を発表したのだった。

「『震度7』相当の地震が発生する可能性がある」

先月21日、首都直下地震の一つとして想定されている東京湾北部地震について
「最大震度7」の巨大地震が発生する可能性があると発表したのだ。
これまで震度6強を想定していたのだが、
東京大学の地震研究所の調査により、一段階レベルを上げる結果となった。
さらに今日には、震源となるプレート境界が従来の想定よりも
10kmほど浅いことが判明し、ますます「震度7」は現実味を帯びて来た。

果たして「震度7」とはどの程度の揺れなのだろうか…。

私は千葉県船橋市にある防災センターを取材し、
「震度7」の揺れを疑似体験することにした。

テーブルと台所、さらには本棚が設置された4畳ほどの大きさの部屋。
これらの家具には、転倒しないためのストッパーがついていた。

「それでは地震体験スタートします」
担当者の掛け声とともに、部屋がグラッと揺れ始めた。最初は震度3。
そこから10秒毎に一段階ずつレベルを上げていく…そして…

 

「震度7」


これは、記憶の中をいくら探しても見つからない、
今までの揺れとは全く比べものにならない衝撃だった。

…何もできない…。

四つんばいでも身動きが全くとれず、どうしていいのかわからない状態だった。
「…ハァ・・・ハァ・・・ハァ…」
約1分間の地震体験…それが終わってもしばらくの間、頭がグラグラと揺れ続けていた。
全く動けなかったにもかかわらず、息は上がり、まるで全力疾走した後のようだ。
「震度7」
あの日、東北を襲った巨大地震がこれほどのものだったのかと
考えるだけで身震いがする。

東京23区でも最大震度5強を記録した東日本大震災の揺れ。
私の家では本棚から本が一冊落ちただけで、大きな被害はなかったのだが、
あの日の揺れと比べても「震度7」がケタ違いであることは明白だった。

落下物や揺れに翻弄され、自由意思で行動できない。
ほとんどの家具が揺れにあわせて移動する。
テレビ等、家電品のうち数キログラム程度の物が跳ねて飛ぶことがある。

これは気象庁の「震度階級関連解説表」に記された「震度7」の定義だ。
上記からもわかるように身動きがとれなくなることはもちろん、
震度7は家具の転倒や火災などによる二次被害も引き起こしやすい。

新潟中越地震・中越沖地震の際には、
負傷者全体の中の約5割が家具の転倒によるものだということがわかっている。

「いつ来てもおかしくない」震度7の巨大地震…。
3月11日が目前に迫っている今、
できることから防止策を施しておくことが大事なのかもしれない。
…と書いてみたものの、「震度7」を体感した後の僕には、
それがいったいどんな策なのか、思いつかなかった

 

文責:制作部 小島典浩

 

語られなかった東日本大震災 ~Episode 20~

『震災から1年~将来を担う若者たち~』

「僕は福島がまた好きになりました。」

先週、私の前でそう語ってくれたのは、
1年前、宮城県・石巻市で“1週間の災害ボランティア”に
参加していた、大学3年生の吉田剛士さん。


     ※右:石巻のボランティアに参加した吉田剛士さん)

彼は当時取材対象者の一人だったが、諸事情により実際の放送では
彼を取り上げることはできなかった。
しかし、私の中で彼は、印象に残る人物だった…。
それは、彼が福島県・いわき市出身であること。
実家が震災の被害を受けていたにも関わらず、
震災後すぐに災害ボランティアに参加していたからだ。
取材をしている時、彼は自分の故郷が被災しているということを感じさせないほど
黙々と民家のドロかきや炊き出しなどを積極的に行っていて、
むしろ、「そのことを明かしたくない」という思いがあるようだった。

そんな吉田さんが災害ボランティア参加したのは、
母親に言われたある一言がきっかけだった。
震災が起きて実家が心配になった吉田さんは、母親に連絡を取ったが、
電話口で母親から言われたのは

「こっちに来ても何も役立たない」

という意外な一言だった。
東京に出てきている彼にとって、今すぐでも福島に戻って、
何か役に立ちたいという思いがあったのに、その言葉によって、
何もできない無力感を感じたという。

「地元のために何かをしたい」

そんな思いが、ボランティアに参加する原動力となった。

こうして私は1年ぶりに吉田さんに連絡を取った。
震災から1年が経ち、活動を続けているのか?今の思いは?
改めて直接聞きたかったのだ。
さらに言えば、ボランティア減少が言われる中、
1年後の彼を通じて、災害ボランティアの現状、あり方、
そのようなものを見つめるきっかけにしたかったのである。


※1年後に会った吉田さん

以下、できるだけ彼の言葉をそのまま載せたいので、
QA方式でやりとりを記述する。

Q.石巻での災害ボランティア後はどんな活動をしたのか?
A.夏休み中に地元(福島・いわき市)や、岩手で足湯のボランティア活動をしていた。
地元のボランティアに参加した時、初めてリーダーを任せられて
依頼された民家に人を割り振ったり、継続して作業を行うかどうかなどの
交渉をする仕事をしていた。

Q.ボランティアをしていて印象に残ったことは?
A.地元の合同葬儀の手伝いをしたとき。
泥の中から見たことのある高校のアルバムが出てきて
知り合いの先輩のものと分かり、複雑な気持ちになった。


※福島の災害ボランティア

Q.一番嬉しかった出来事は?
A.リーダーを任されたが思うようにいかず落ち込んでいた時に
ボランティアに一緒に参加していたメンバーから
「和を大切にするリーダーだった」と後からメールを
もらった時は、やって良かったと感じた。

Q.ボランティア活動をしたことで変わったことは?
A.「自分がどれだけ人に支えられてきたか」ということに気がつき、
人を大切にするようになった。

Q.ボランティアを通して痛感したことは?
A.石巻でのボランティアが終わって感じたことは、
「何もできなかった」ように思う。
活動する前はそれなりに体力に自信があって参加したのに
実際の現場では泥が乗った一輪車を倒してしまうなど、
力仕事がまったく役に立たなかった。

Q.震災時と今ではどんな思いでいるのか?
A.将来が怖い。
原発事故を知らないまま原発の20km圏内にいた家族や友人が
事故が発覚するまでその近くで普通に生活をしていた。
そういう人たちが将来どうなるのか不安を感じる。

吉田さんは現在、就職活動中だ。
将来はマスコミ業界や食品メーカーなど、
「人に影響を与えられるような仕事がしたい」と言う。

震災から1年が経つ今、多くの若者たちの人生が変わった。
その中で吉田さんのようにボランティアを通してたくさんの人に出会い、
体験したことは今後の社会にどのように貢献していくのだろうか。
私はそこにとても興味がある。

帰り際、吉田さんはこんなことを語った。

「福島がまた好きになりました。
一人前の人になって福島にまた戻りたい」

 

文責:制作部 高橋早苗

語られなかった東日本大震災 ~Episode 19~

『「生きること」にレンズを向ける』

東北地方に本格的な冬の寒さが迫ろうとしていた、去年11月。
私は、岩手県陸前高田市を訪れた。

取材の目的は、寒さで苦労している被災者の現状を追うことだった。
平地の少ない被災地では、多くの仮設住宅が高台に設けられた。
そのため街へ行くには坂道を上り下りしなければならない。
それに加え、この寒さで路面が凍って、高齢者にとって大きな負担になっている。

津波の被害を免れた一本松から、車で10分ほど走った高台の仮設住宅で、
1DKの部屋に一人で暮らしている70歳代の女性と出会った。
夫とは、数年前に離婚。
最愛の息子は、10数年前、建設現場の事故で亡くなったという。

一人での生活は、明るかった性格に影を落とした。
さらに、追い討ちをかけるように「老化」が彼女の体を襲う。
膝の軟骨が磨り減り、支えがないと歩けなくなっていった。
思うように動かない体は、彼女の気持ちをいっそう暗くさせた。

そして、2011年3月11日。
海岸沿いの自宅にいた彼女にも、津波が襲ってくるのが見えたが、
足の悪い彼女に逃げる時間はない。
いつの間にか津波は彼女の腰まで達していた。しかし、恐怖はなかった。
「これで、息子のもとにいける・・・」

安堵にも似た気持ちに襲われたそのとき、誰かが手を差し出した。
「死なせて欲しい、とあのときは思った。息子が生かしてくれたのかもしれないね。」

***

仮設住宅で話を聞いた後、彼女が買い物に行く様子を撮影することになった。
彼女は大きなリュックを取り出し、その中に保険証と水、そしてお守りを詰めた。
「一度生きる、と決めたから」
そういって、彼女は杖を握り表へと出た。

取材のテーマは、あくまで『冬の仮設住宅で苦しむ被災者』だった。
凍って滑りやすくなっている坂道が現れる。
私はカメラを彼女の足元に向け、ゆっくりと彼女の顔へと動かした。

すると、まっすぐ前を向いて彼女は泣いていた。
驚いた私は、彼女の視線の先に目を向けた。
津波ですべて流された陸前高田の街の景色が広がっていた。
「何もない。本当に何もない・・・」
震災から半年以上が過ぎ、何度も目にしたはずの風景・・・。
それでも涙は止まらなかった。

杖に頼りながら一歩一歩、凍った路面を歩き続ける彼女を、私は撮影した。
しかし、そこに映っているのは、冬の寒さに苦しむ被災者の姿ではなかった。
それは「強さ」でも、「弱さ」でもない、ただ前へ前へと進む人間の営みだった。

震災直後とは異なり、いま被災地を取材する意味は、
どんな問題があるのか提起することにある。

しかし、映像にテーマを付けるのは我々であって、
映像自体の力というのはもっと別の次元にあるのだと、撮影しながら改めて感じた。

帰りがけ、彼女からお土産を頂いた。
それは一本松の写真がプリントされたクリアファイルだった。
彼女の人生と一本松・・・。

「生きるということ」を撮影すること、
これを忘れずに仕事を続けていきたい。

 

文責:金澤佑太

語られなかった東日本大震災 ~Episode 18~

『震災におけるボランティアの意味とは』

取材後記のタイトルにもなっているが、今回のテーマは「ボランティア」。
そのボランティアが5月初めのゴールデンウィークで大量に誕生したことは
記憶にも新しい。

全国社会福祉協議会によると、
5月のゴールデンウィーク中(4月28日~5月8日)に
岩手県・宮城県・福島県の3県にボランティアとして参加した人数は
約8万4000人だったという(※1日あたり約7500人)。

〝彼らは一体何のために被災地へ赴くのか〟
〝彼らはそこで何を感じるのか〟

私は率直にこう問いかけるべく、岩手県陸前高田市のボランティアツアーに
密着取材した。

5月中旬、午前5時30分。
JR盛岡駅前のバスロータリーに3台の大型バスが続々と到着した。
これらのバスは1台は陸前高田市へ、もう1台は気仙沼市へ、
そして最後の1台は大槌町へと向かう〝被災地ボランティアバス〟である。
私は陸前高田市へと向かうバスに同乗した。

バスに乗り込むと、すでにほとんどの席が埋まっており、
私は後方の窓側の席についた。
参加者は老若男女、東京からやって来た大学生から北海道在住のおじいさんまで
さまざまで、私はカップルで参加しているという地元・岩手県盛岡市出身の
男性と話をすることができた。

死者1526人、行方不明者543人(7月2日現在)、
壊滅的な被害となった岩手県陸前高田市は、私が訪れる2日前から
本格的に被災地ボランティアの募集を始めるなど、
復旧に大変な時間と労力を費やしている、と盛岡市出身の男性は言う。

盛岡駅を出発して約3時間、総勢36人のボランティアを乗せたバスは
いくつもの山を越えて陸前高田市内へと到着した。


(↑陸前高田市内/ボランティア作業場から見た風景)

今回の作業内容は「泥の除去作業」。

市内にあるガソリンスタンド前の道路脇に溜まった泥を、スコップで取り除き、
その泥を邪魔にならないところまで持って行き、捨てるという単純な作業…
のように思えた。
しかし、全長30mにも及ぶ長い道路脇には、全てこのように石蓋が積まれている。

そう、この下に埋もれている泥を取り除くためには、
まずこの30kg以上あると思われる石蓋を自力でこじ開けなければならないのだ。

とにかくやってみようと、1人の男性が闇雲にバールを使って挑戦してみる…が、
ビクともしない。
もう1人…近くに落ちていた木材を使って開けようと努力するも…失敗。
気がつけば蓋を開けるために使えそうな道具がないか、全員で道具を
探し回っていた。

2人…3人…4人…石蓋と格闘すること約30分、ようやく1つ蓋を
取り除くことに成功した。
蓋を開けてみると、そこには洪水によって溜まった泥が山盛りとなっていて、
私も実際に体験したのだが、それをスコップで掻き出すのも一苦労なのだ。
水分を含んでいる泥はとてつもなく重く、約10kgの重りをつけて
筋肉トレーニングをひたすら繰り返しているかのようだった。

この作業を朝から夕方まで、約5時間行った結果、
ようやくガソリンスタンド前の溝(約30m間)はキレイに泥が取り除かれた。

東京からやって来たボランティア参加者の20代女性は

「今回の作業はとても大変で皆さんの足を引っ張ってしまったかもしれません
でも、皆さんと一緒にボランティアができて、私の中の何かが変わった」

と私に話してくれた。

市内のガソリンスタンド前で作業をした5時間、
一心不乱に溝に溜まった泥を掻き出していた参加者たちの間には、
確かに〝強い絆〟が生まれているように感じた。

あの女性の話ではないが、〝私の中の何かが変わった〟という言葉通り、

〝自分を変えたくてボランティアにやって来た〟

という方がとても多いことも確かだ。

青森からやって来た30代女性は

「仕事で思い悩んでいたが、こうやって皆で力を合わせて作業をしたことで
心の中のモヤモヤが取れた気がします」

と笑顔で語ってくれた。

総勢36人で組織されたボランティアという名の〝社会〟の中で、
〝自分を見つめ直す機会として〟被災地に赴き、泥かきをしている方々がいる。
東日本大震災によって自分を見つめ直すことができた、ということなのだろう。

文責:制作部 小島典浩

語られなかった東日本大震災 ~Episode 17~

『歴史の証言者』(後編)

前編 Episode15 より続く)

「津波てんでんこ」。
三陸を取材していると度々耳にする、妙に印象深い言葉がある。
津波が来たら親兄弟にも構わず、てんでバラバラに高いところへ
逃げよ、という意味だ。
津波のスピードは僕たちが想像している以上に速く、
「来た!」と思った瞬間には津波に呑みこまれてしまうらしい。


(岩手県宮古市・田老湾。全てが破壊しつくされ、流された。)

とにかく生き延びるために、一族の全滅を防ぐため、
一人でも多くの子孫を残すための、三陸の海に生きる民の知恵だ。
今でも避難訓練の際には、「津波が来るぞーー!」と大声で叫びながら
逃げるように、逃げる一人ひとりが「津波警報」になるように、と
教えられている所も多いのだという。

三陸の地で被災者の声を拾い続けていた僕が、
この岩手県宮古市田老地区で出会ったひとりのおばあちゃん。

赤沼ヨシさん。
大正6年10月26日生まれの、93歳だ。
何かと不自由な避難所暮らしを強いられているものの、至って元気で明るい。
昭和8年の大津波の後と比べれば、天国のような暮らしだと朗らかに話す
姿が印象的だ。
それもそのはず、聞いて驚いたのだが、78年前は救援物資もろくに届かず、
雪が降り続く中で、掘立小屋を建ててムシロに寝ている人も多かったという。
食べる物も殆どなく、ごく稀に手に入る握り飯も寒さのためにカチコチに凍り、
また着る物もなく、ただひたすらに救援を待つ日々。
遺体が片付けられることもなくあちこちに転がり、数少ない食料品などを
人々が奪い合う光景は、まさに地獄のようだったという。

ヨシさんはこの田老の地で生まれ育ち、また父・堀子丑松さんは、
明治三陸大津波の数少ない生き残りとのこと。
首筋がチリチリするような不思議な感覚・・・。
【凄い人に出会ってしまった!】
・・・そう、テレビディレクターとしての勘が告げる。

「その時は、お昼を食べとりゃした。お昼さ、夢中になって食べとるところに、
どーんというように盛り上がるような、横揺れに・・・
立てないから四足になって玄関まで行きゃーした。
変な地震だなぁ、とその時は思いやして、慌てて玄関に出りゃーした。」

その日、ヨシさんは遅めの昼食を一人で食べていた。
午後2時46分。
時計の針がその刻を指した瞬間から、ヨシさんは再び地獄の淵を覗くことになる。

高齢に加えて、方言もきつい。
何を意味するのか分からない言葉も多く、またなぜか廓詞のようなものが
混じっていて、非常に聞き取りづらかったものの、そのひとつひとつが
とてつもない価値を持っている事は十分に理解できた。
僕は喰らいつくようにペンを走らせ続ける。(もちろんカメラは回っている)

「前の昭和8年のね、津波のようたれば、第一波が来て、それがまた引いてから
第二波が来たんでござんすが、今度の津波は一波も二波もねぇ。
海が盛り上がったみたいに来んでござんますもんで・・・
引き波も何にもないような・・・」

一言、一言振り絞るように語る、93歳の証言の重み。

「わだし、一生懸命走って10メートルも行かないうちに、ガリガリガリって
音がして後ろを向いたら、波が防潮堤の上を3メートルだか、4メートルだか
乗り越えて、波の上がキラキラ光りながら、こっちに来んだもん。
昭和8年の津波の3倍はあるってピンときたでござんす。
それから一生懸命逃げた。押し車を押して・・・。
でもその車がいうこと聞がねぇ。」


(赤沼ヨシさん(93)の押し車)

今回の津波がいかに巨大なものだったか。
昭和8年時のそれの3倍はあったとヨシさんは語る。
もちろんそれは正確なものではないのだろうが、実際に2度の大津波を
体験しているだけあって、言葉に迫力と説得力がある。
波というより、「のっ、と」海が浮き出てきたような感じ・・・
そう何度も繰り返すヨシさんは、逃げながら不思議なことに気が付いたという。

「昭和8年の時もその通り。誰も津波だ!という人は一人もいないでござんした。
みんな無我夢中で山に登るんでございます。もう夢中になって声も出ない。
津波で逃げっ時は、本当に誰もみんな何も言わないでござんすよ。
隣の人も呼ばないでござんすよ。自分たちの命を守るのに一生懸命で。
誰も津波だー、という人はないござんす。今度もその通りで・・・。」

津波てんでんこ。
大声で叫びながら逃げるようにと訓練されてきたにも関わらず、いざとなると
言葉もなく、ただ黙々と逃げるしか術がなかった田老の人々。
さらに過去の津波の恐ろしさを知らない人々の中には、のんびりと立ち話を
していてそのまま帰らぬ人となったケースも多かったという。
さらに問題なのは、田老地区の津波警報が鳴らなかったのではないか、
ということ。

「津波だ、という警報が鳴らなかった。
逃げる時にサイレンが鳴ってくれたら、人がもう少し助かったんで
ねぇだべな・・・って。
なんぼすごい防潮堤を造ったって、今度の場合、あんまり人の命は
救えなかったでござんすべ。
だから、やっぱり警報だけはしっかりしてもらえれば、もっと人が
死なないで済んだのでは・・・。
警報は一人残らず逃げ切るまで鳴らしてもらいたいでござんす。」

地震や津波で警報装置が故障したからなのかどうか理由は定かではないものの、
今回の取材では津波警報を耳にした人に出会うことはなかった。
行政に問い合わせてみると、警報は7回鳴ったとの記録はあるものの、
本当に鳴ったかどうかは分からない、という回答を得た。
いずれにせよ、あまりの恐怖に言葉を発することのできない住民に代わって、
早く逃げろと呼びかける津波警報の重要さを、ヨシさんは説く。
訓練はあくまで訓練。
想像を絶する事態に巻き込まれた場合の人間の心理状態までをも想定し、
強大な地震や津波にも負けない警報装置を作り、最後の一人が避難し終わるまで
警報を鳴らし続ける。
2度の大津波を生き延びた人間の言葉に、田老地区だけにとどまらず
日本全国の行政機関は耳を傾けるべきだと思う。


(一帯に住宅が並んでいたが、今では瓦礫の山・・・)

インタビューは休憩を挟みながらも半日以上に及んだ。
跡形もなく無くなってしまったヨシさんの家(があった場所)の前で、
最後に僕は、散々悩んだ挙句に、こんな質問をしてみた。

—またここに住みますか?

ヨシさんの目が潤む。
聞いてはいけない質問だったのかもしれない・・・後悔の念がよぎる。
しかし、ヨシさんは力強く僕の目を見据え、こう切り出した。

「生まれた里で、生まれ故郷で終わりたいと思っておりんす。
100歳まで生きたって、あと7年しかないでござんす。その人生を
どうやって暮らしていくか・・・。それまでにこの田老がどう復興すべか、
どのように変わっぺか、それも見ておきてぇす。やっぱり故郷は
捨てられないでござんす。」

その時、ヨシさんの脳裏には、昭和8年の大津波から力強く復興した、
かつての田老村の姿が蘇っていたに違いない。
また再び、全てを失い、何もかも無くなってしまったけれども、この田老は
再び元の姿に戻ることが出来る、そう確信していたのだと思う。

***

被災地を取材していると、批判的な目で見られることも多い。
家や肉親を失って苦しんでいる人々を映すことに意味はあるのか。
根掘り葉掘り、当時の状況を聞くのは野次馬と一緒ではないのか。
さらに興味本位の取材は止めてほしい、と言われたことも一度や二度ではない。
テレビなんてどれだけインタビューに答えても、どうせ使うのは数秒なんだろ、
と面と向かって言われたことさえある。災害救助やボランティアの人たちと違って、
僕たちは招かれざる客なのだ、と感じることが多々あるのも事実だ。

しかし、ヨシさんのような2度の大津波を生き延びた人物の貴重な証言・・・
歴史の証人と言っても言い過ぎではないと思うが、そのいつかは
失われてしまうであろう、彼女の記憶をカメラで記録することこそ、
テレビディレクターとしての使命であり、
マスコミに携わる人間にしかできない仕事なのだと思う。
ヨシさんだけではない、未だ8万人以上いる避難民の方々の「記憶」を
出来る限りたくさん「記録」し、「放送」すること。
そしてそれを教訓に、また必ず来るであろう津波の被害を最小限に抑えること。
それが僕の好きな三陸に対してできる、最大限の恩返しなのだ。

あれから3ヶ月が経ち、テレビや新聞紙上で震災関連のニュースは
減り続ける一方だ。
永田町の老人たちの醜い権力争いや、少女たちの「総選挙」を面白おかしく
大々的に取り扱うのも良いだろう。
そういったニュースを好む人たちがいるのも事実だからだ。
テレビは高尚であれ、と講釈を垂れるつもりはさらさらないが、
阪神淡路大震災の際には、その直後に起きた地下鉄サリン事件報道がテレビを
「ジャック」し始めた途端、義援金が集まらなくなったと聞く。

「3・11」を忘れないためにも、三陸の人々の「記憶」を「記録」することを
出来るだけ長く続けること。
それが復興を支え、また僕たちが再び、美味なる三陸の海の幸に
舌鼓を打つことができるようになる、一番の早道なのではないだろうか。

(了)

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太