映像メディアのプロになる!
---テレビ業界の実像から
映像制作・技法まで
好評発売中!
    > 検索オプション
  
投稿日時: 2012-04-08 20:00:00

『テレビ的な正論』

当初より、この回を書く目的は、

「ADたちの、311から1年シリーズ取材後記を読んだ感想文を載せること」

だ。
しかし、読んでくれたある人のある感想を聞いた時、
ひとつの思惑が生まれ、というか昔から抱いていた考えが再燃し、
僕の頭から離れなくなった。

しかしそれは後に置いておき、まずADから寄せられた感想を並べたい。


ADぱっつん
『テレビには伝える事しかできないし、伝え続ける事が使命である』の感想
http://www.mediaone.co.jp/xoops/html/modules/bulletin03/index.php?page=article&storyid=42


「テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように
報道し続けていくことに尽きると信じている」と奥村ディレクターは言う。
このような考えを持って一年後の3.11を迎えたテレビマンはどれだけいたのか。
「もう去年の惨事を思い出したくない、またはそこまで長く見たいと思わない
(震災特番がこの日放送されていたため)と思う視聴者もいるよね。
でも震災から一年目を迎えた次の日の朝のニュースで、
これらのネタを少ししか取り上げないのも変だよね。」
今年の3月11日、私はとある朝の情報番組のスタッフルームにいた。
次の日のOAを控え、曜日チーフが発した言葉に、違和感を覚えつつも、
それもそうだなと思ってしまう自分がいた。
一年前のあの大惨事があった一年後の3月11日、新聞各紙、一般紙もスポーツ紙も
震災ネタが多く、明るい記事は多くなかった。
海外アーティストが被災地を訪れたり、某アイドルグループがイベントを行ったり、
ネタは多いが内容は明るくない。
次の日のOAで取り上げる新聞記事を選ぶディレクターの様子を見ていても
震災はもう過去のことであり、関心が薄れてきているように感じることもあった。
テレビは第4の権力と言われるだけあって、その影響力、世間への浸透力も高い。
そのテレビに関わる人々が被災地へあまり目を向けなくなっていったら
徐々に3.11は忘れられていくのだろうか。
それでも今年は映像業界を華やかにするのに欠かせない多くの芸能人が
被災地を見舞い、イベントを行った。
その芸能人が旬な芸能人であればあるほど、または大物であればあるほど、
メディアは彼らの行動を取り上げないはずもないし、視聴者は彼ら見たさに
そのネタに注目するような気がする。
結果としてこれは人々が被災地への関心を持ち続ける口実になるのかもしれない。
ただ報道をするよりも、彼ら芸能人の力を借りてこのテーマを取り上げることで
人々が3.11を忘れないきっかけになるのかもしれない?と
某アイドルグループの1人が大袈裟なくらい泣いている映像を見て思った。
芸能人の存在意義の一つが分かったような気がする。
シンディー・ローパーが被災地に対して発言している会見の書き起こし作業をしながら、
シンディーの熱い発言を聞いていて3.11を忘れてはいけないなと
思ってしまったミーハーな人間の1人は私だ。



奥村Dの取材後記には、ADヨネ子からも感想が寄せられた。


美談は報道の敵かもしれない。

報道が拾い上げなければならない「無念」は美談などとは縁遠く、
美談は事の問題点をうまく隠す力を持つ。
永遠に「無念」の原因を
葬り去ることができるのだ。
町長は助かったはずの命だ。

奥村ディレクターによる取材で初めて推測できたことだが、

地震直後の職員らの行動は津波被害を十分に想定していたうえでのものではなかった。
人命救助や職務に忠実であった彼らの思いが報われたとは言いがたい。

防災マニュアルという過去の教訓が生かせなかったのは、なぜなのか。
ここから初めて私たちは「疑問」をもち、「無念」を拾い上げる
スタート地点に
立てるのではないかと思う。
「震災報道」として多くのディレクターや記者が
被災地で取材をしてきたが、
亡くなった人の声に耳を傾けることは難しい。
「無念」が晴れることはないし、きれいに整理できることもない。

これを踏まえて取材をしていきたいと思う。



ADヨネ子
『「2万人近く」と「14人」』の感想
http://www.mediaone.co.jp/xoops/html/modules/bulletin03/index.php?page=article&storyid=41

数字とは恐ろしいもので、ある一定数を超えると独り歩きして
私たちがつかめないものに変化する。
ひとつひとつが霞んで、
2万、3万という塊でしか受け止められなくなる。
東日本大震災によって私たちは「2万人近く」の命を一瞬で失った。

私もこの「2万人近く」をどう受け取ればよいのかわからない。
震災後、毎日膨らんでいく死者・行方不明者数をただぼーっと見つめた。
これは1995年の阪神淡路大震災直後の記憶と同じだった。
朝刊トップの見出しには連日、死者・行方不明者の数が並んだ。
数字は世界共通のコトバだが、その人の顔も声も、人生の何一つ表現することはできない。
共通の認識をもつことはできても、数字が伝える情報量は
私たちが思っているよりずっと少ないのではないだろうか。
杉井ディレクターが偶然足を向けた中学校で見つけた、
学校の机とメッセージの方がずっと伝わる情報は多い。

14人の呼び名やさまざまな字体、新しい机なのに錆びついた脚、
そしてそれに足を止めたテレビクルーがいる。
整理できないものこそが、私たちが直面している現実なのだと感じた。



ADアカメン
『語り部』の感想
http://www.mediaone.co.jp/xoops/html/modules/bulletin03/index.php?page=article&storyid=44

全体の取材後期を通して読んで感じたことは
捕らえようの無い大きな現実に読んでいる人たちは
何をどう感じればいいのだろうということだ。
それは見る人それぞれ自由に捉えればいいことだと思うが
僕の目線からすると単純に「どうすればよいのだろう」と思ってしまう。
当事者としての意識が無いのだ。
だからTVを通した現実を現実として捉えることは難しい。
やはり自分で体感するほか無いのかと思うが
下手に手を出すと中途半端になってしまう。
ボランティアならばいいが出来ることは限られている。
TVの怖いところは報道というある種の「正義」という権利が
ディレクターに舞い降りた時、それを行使することだ。
映像で被災地を伝えること、現場の緊張感、センチメンタリズム、
それぞれのディレクターは何を伝わんとするのか、
この非常事態に美談や悲劇を伝える意味をディレクターは
どの時点で気づき苦しんだのだろうか。
放射能を恐れなかったのか?打ちひしがれる感覚は?
その感情を振り払うかのように再度訪れたい、会いたいと思う
その気持ちはどこから沸いてくるのか?
その気持ちを映像にどのようにして収めたのか、あるいは
収めきれなかったのかを僕は直接聞きたい。
「仕事で頼まれたので」という理由以外を僕は望んでいる。

取材後期の中からひとつ選ぶとしたら、黒崎Dの「語り部」だ。
一人の少女の記憶をメディアと呼ぶ。
彼女はなぜ語るのか?語るという行為は彼女にとって
どのような意味を成しているのか?そこが一番大切なところだ。
その尊い行為を機械的なメディアというひとつのツールとして呼ぶことに
少しばかり疑問を抱く。
僕はその少女がいつか語り部を辞める時が来ると思っている。
忘却である。
その記憶をとどめるのが我々メディアと呼ばれる機械的な職人集団であってほしい。
人間はいつか死ぬ。百年という単位が人間にはあると思う。
百年前の人間が東北地方に起こった地震の記憶を留めるために
書物や標石を立てた。
その記憶は思いのほか伝わらず東日本大震災で多くの人々が命を落とした。
百年という単位の中で記憶は風化し見えずらくなる。
百歳を前になくなる人間はひとつ下の世代に伝言を残さなければならない。
しかしそれは伝言でしかなく、言語の響きだ。
百年前にメディアは存在しなかった。今は多くのメディアが存在する。
その文明を持った世代が百年後の私たちの世代だ。
この違いがどのような未来をもたらせるのか百年を振り返る時期が
世界にやってきたのかもしれない。




「あの日を忘れないために、テレビができることは何なのか」

テレビに携わる者は、必ずこの命題を頭に設定したと思う。
ADたちも、取材後記を書いたDも、そして僕も、この、
ある意味疑いようのない、間違いのない言葉を頭の片隅に置いているはずだ。

しかし、僕に投げかけられたもうひとつの感想が、石となり、
僕の脳に波を立たせた。それは

「復興、や回復への解決策(方法論)こそが最も重要で
TVもそのレベルに参加していくしかないと思います」

という、感想。



テレビは、忘れないために放送し続けるだけでいいのか?

我々は、撮り続けていく事しかできないのか?

忘れないことが、最終地点なのか?

すでに起こった出来事を撮るのではなく、何かを引き起こす主体になれるのか?

過去、現在ではなく、未来を作り出す事が、テレビにはできるのか?

まず僕に必要なのは、「テレビ的な正論」を認識した上で、
巧妙にそのピットフォールを回避する事、だった。

こんなことを考えている人が他にいたなら、ぜひ話をしてみたいと思う。

終わり


投稿日時: 2012-03-11 14:46:00

『語り部』

宮城県南三陸町。

雪の舞う日、僕は、震災の記憶と向き合う一人の少女と出会った。
彼女の手にしたノートには、地震に襲われた出来事や、その時の心情が、
10ページにわたって、手書きの文字で綴られている。
それを、ボランティアなどに読んで聞かせる「語り部」を続けていた。

「3月11日、2時46分、5時間目の真っ最中でした。
いつもと同じように、机の下に隠れました。
でもどんどんどんどん揺れが強くなって、とても怖かったです。」


この一節から始まる、震災の記憶。
彼女の声に耳を澄ましていた、東京から来たボランティアたちの目には、涙があふれていた。

彼女もまた、メディア、だった。
何も、テレビや新聞だけの特権ではない。
被災者一人一人が、語り部、である。

きょう、テレビ各局が追悼番組を放送した。
記憶があふれた。
「あれから1年」はもう終わる。
だけど、明日も、あさっても、「被災地」である。
宮城県、岩手県、福島県、青森県、山形県、茨城県、栃木県、群馬県、千葉県、神奈川県、長野県、静岡県…。
「被災地」が「被災地」と呼ばれなくなる日が来る日を願う。


「あの記憶をだんだん忘れてしまう自分がいる。だから、このノートを読む事で思い出す」

あの語り部の少女は、僕にこんなことをつぶやいていた。

僕たちメディアもまた、だんだん忘れていく。
1年、2年、3年…。「区切り」で、ふとまた思い出す。
「区切り」なんてないのだけど。

メディアもまた、「語り部」であることしかできない。
声を拾っていくことを、続けていかなければならない。

そして、あの少女にも、語り続けてほしい。
地元のみんなが、伝えたい、という思いを、持ち続けてほしい。
僕は、そこにレンズを向ける。



取材後記「語られなかった東日本大震災」〜震災から1年〜は、
この記事が最後です。
だけど、僕たちは、書き続けます。
読んでくれた皆様、ありがとうございました。
語るきっかけをくれた、被災地の皆様、ありがとうございました。


文責:制作部 黒崎淳友


(※このWEBサイトに掲載されている文章・映像・音声写真等の著作権は株式会社メディア・ワンおよびその他の権利者に帰 属しています。権利者の許諾な く、私的使用の範囲を越えて複製したり、頒布・上映・公衆送信(送信可能化を含む)等を行うことは法律で固く禁じられています。)


投稿日時: 2012-03-10 16:00:00

『ありがとう』



おにぎり。

ちなみに手作り。
実はこれ、取材中に相手からいただいたものだ。
帰りのバスの中で食べた味は、とても美味しかった。

岩手県陸前高田市から始まり、気仙沼市、石巻市、仙台市、南三陸町…
1年間被災地を取材してきた。
いろんな人に出会い、たくさんの貴重な話を放送してきた。
その中で僕が忘れる事ができないのは、取材相手からもらったもの。
おにぎり、缶コーヒー、揚げ串、牛タン、おでん、かまぼこ、いちご…。
「もってけもってけ」「遠慮すんな」
シーンの一つ一つ、言葉を鮮明に覚えている。

「被災者からいただく」ということは、どうも、悪い。
被災されているわけだから。ただでさえ自分の生活が大変なのに、
数日の仕事のおつきあいで会った僕たちに、身銭を切らせている。
ただただ、悪い、と思った。
この内容自体を書くのも、気が引けたのも事実だ。

テレビ取材をお願いする上では、基本的にお金のやり取りはしない。
僕たちは、取材相手の忙しい一日の中で、打ち合わせの電話の時間をもらい、
仕事の時間を削らせて、カメラの前に立たせている。
もらいっぱなし、なのだ。
さらにその上に相手からいただきものをするのは、何かを返したい、という気持ちに駆られる。

だから、放送日を迎え、無事に映像を流すという事は、一つに、
手紙のようなものだと思っている。

ありがとう。

放送をすることは、相手にとってお返しにならないかもしれないが、そう言いたくなる。

政治の裏側をあばく。世界情勢を知らせる。困っている少数の意見を強調する。
報道には、いろんな面がある。
マスメディアは、国民が、知る機会を得るために開発した装置だ。
振りかざすことができる剣は、少し重い。
一方で、レンズがとらえない、放送には決して反映しない、小さな小さな、取材相手とのやりとりを、
大事にしたい。
被災地と1年間対峙して、僕は改めてそう思った。

「なんだか寂しいね」
今月、南三陸町で密着した一家の一人から、別れ際に言われた一言だ。
その時カメラは回っていない。
たった2日間の取材だった。
心底、嬉しかった。
僕も寂しかった。また会いたい、と思った。
この人たちが、本当に助かってよかった。

僕たちマスメディアにできるのは、被災地に思いを馳せ続けること、だ。
レンズの外側でくれた贈りものに、僕はお返しをしなくてはならない。


責:制作部 黒崎淳友


(※このWEBサイトに掲載されている文章・映像・音声写真等の著作権は株式会社メディア・ワンおよびその他の権利者に帰 属しています。権利者の許諾な く、私的使用の範囲を越えて複製したり、頒布・上映・公衆送信(送信可能化を含む)等を行うことは法律で固く禁じられています。)


投稿日時: 2012-03-09 19:00:00

『テレビには伝える事しかできないし、伝え続ける事が使命である』

あれから1年。

夏が来て、
秋が来て、
雪が降った。
そして冬が過ぎ、東北の地にも、まもなく春がやってくる。

この間、テレビをはじめとしたマスコミを巡る環境は一変した。
原発報道に端を発したマスコミ不信はかつてないほどに高まり、
ネット上にはあちらこちらに「隠蔽」「マスゴミ」といった言葉が踊る。
記者クラブ制度の弊害!と声高らかに叫ぶ者があれば、
テレビそのものを「くだらないもの」と一刀両断、
テレビを見ない宣言をする者、実に様々である。
お茶の間の中心でなくなって久しいテレビは既に娯楽の王様でもなく、
真実を伝える「箱」でもない。

しかし、そんな状況にありながらも、テレビディレクターである僕にとって、
この一年間はテレビの持つ力を再認識させられた一年間であったといえる。



テレビの力・・・、それは遠くに離れている人たちに対して、
一度に、同時に、そして大量の情報を瞬時に伝達できるということに他ならない。
単純計算すると視聴率1%で130万人。
世界で最高の発行部数を誇る読売新聞でさえ1000万部だというから、
テレビで視聴率10%を獲得すれば、読売のそれをゆうに凌ぐ計算となる。
あくまで理論上の数字でしかないが。

どこそこの避難所で食糧が足りないと放送されるや否や、
日本全国から食べきれないほどのおにぎりやパンが届く。
電話もメールも通じず、一切連絡が取れなかった親戚を
テレビ画面を通じて発見する。
もちろん、食糧が余りすぎた等、支援物資のミスマッチングを解消するために
ネット、特にソーシャルメディア(Twitterなど)と呼ばれるものが役立ったのも事実だ。
きめ細かな支援の妨げになる、という理由でテレビが批判されたこともあった。
しかし、あの時、僕たちにできたことは被災地の現状という「情報」を日本中に発信し、
被災地にフィードバックすることだった。
「瞬時」に「大量」の「情報」を「投下」することによって解決された問題も
非常に多かったように思う。
そう、「情報」は一時期、東北の人々にとって最大の「救援物資」だったとも言える。
しかし、そんなテレビの「画一的」な報道は、時に真実から人々の目を
反らすことに繋がったのもまた、一つの事実である。

岩手県の大槌町を訪れたときのことだ。
雨が降りしきる現場は、まだあちこちで煙が上がっていた。
車が燃え、家が燃えていた。刺激臭が鼻をつく。生きているものなど
そこには存在しないかのような光景・・・まさに地獄絵図が広がっていたのである。




自衛隊員が悲痛な面もちで、行方不明者の捜索にあたっていた姿は今でも忘れられない。
この岩手県でもっとも被害が大きかった街のひとつで僕は
テレビ報道のあり方について深く考えさせられることになった。

死者・行方不明者は1,282人にものぼり(3/2現在)、
特に町役場の職員は全139人のうち33人が死亡。
役場は津波の被害を受け大破し、復旧されることなく放棄された。
被害者の中には町長だった加藤広暉さんも含まれている。享年69だった。



僕がこの町に足を踏み入れたのは、復興の要となる町役場が機能不全に陥ったことによって
なかなか支援が進んでいなかった時。
住民の不安と疲れがピークに達していた頃だったと思う。
そんな現実がある一方で、加藤町長の死が「美談」としてマスコミで報じられ始めてもいた。
町民を守るために津波に襲われながらも最後まで役場に残って
町民の安全を優先させた、といった内容だったと記憶している。
確かにそうなんだろうと思う。
加藤町長の勇気ある行動によって助けられた命もあったはずだ。

しかし、僕はこの報道に若干の違和感を感じていた。
というのもマスコミ、特にテレビはこの手の話が大好きだ。
自己犠牲を省みずに行動し、命を失う。
貴き犠牲の上で生まれた新しい命・・・といった類のものだ。
誤解を恐れずに言えば、絵に描いたようなお涙頂戴モノを好むのが
テレビというメディアなのである。
さらには「視聴者のみなさんは、こういうお話が好みなんでしょ。」
などという、どうしようもなく上から目線で、
視聴率欲しさで番組を制作している輩がいるのも事実である。




町長の「美談」に目を奪われていて、見えなくなっている事実があるのではないか。
しかし一方で、職員の2割を超える人々が亡くなったというのも、また偽らざる現実だ。
震災が発生してから、役場が津波に飲み込まれるまでの30分間、
何が行われ、何が起きていたのかを取材して検証するのも、
我々の大事な役割なのではないか。
見方によっては地味な「ネタ」だけに、ボツになるかもしれない、
放送されることはないのかもしれない。それでも僕はカメラを回し続けた。

取材を続けていくと、加藤町長や役場の職員たちは、震災発生後、
役場の前に机などを出して災害対策本部を作ろうとしていたことが分かった。
老朽化した庁舎では危険だ、と判断したかららしい。
これまでに三陸を襲った津波被害の教訓では
「とにかく高いところへ逃げろ」とされていたにも関わらずだ。また防災マニュアルには
「庁舎が使用不可能になった場合は(高台にある)中央公民館に本部を置く」
と記されている。
「町長さんたち、何やってるんだろう。早く逃げればいいのに。」と
山の方へと避難しながら不思議がった町民もいた。
それなのに、なぜ?
取材によって浮かび上がった断片を繋ぎあわせてみると、おそらく真相はこうだ。

「加藤町長以下職員を含めて、防災マニュアルが徹底されていなかった。
津波に対する危機意識もあまりなかった。」

町の防災無線が「高台に避難して下さい」と呼びかける中、職員たちは
対策本部の会議を行うための机を並べていたのである。
結果、猛然と襲いかかる津波に気付いたときには、時既に遅しの状況であったことは想像に難くない。
次第に姿を大きくしていった「黒い固まり」は、
役場の屋上へと逃げようとする職員たちを次々と飲み込んでいったと、
目撃者は語っている。

もし加藤町長や役場の職員たちが防災マニュアルに従って
高台の中央公民館に対策本部を作ろうとしていたら?
もし先人の知恵が、彼らを高台へと導いていたら?
もっと危機感を持っていたら?

もしかして、亡くなった命の何割かが救われたかもしれないのだ。

起きてしまった自然災害は、もう元へは戻せない。
町が元の姿に戻ったとしても、失われた命はかえってこない。
時計の針を戻すことが誰にもできないように。

しかし、この悲しい教訓を取材し、放送することで、
また起きるかもしれない地震や津波の被害から救うことができる命があるかもしれない。
そしてそれができるのが僕たちの仕事でもある。

あの時、何が起きていたのか?
どうして命を落とすことになったのか?

耳障りのいい「美談」の裏にある事実に眼を背けることなく、
様々な角度から検証し報道していく。
そのための「トンボの眼」はディレクターにとって最も重要な能力だと痛感する。
たくさんの取材テープの中から、今、必要な情報、後世に語り継いでいくべき
貴重なひとかけらを探し出して放送し続けていくこと。
それがあの現場に立った僕たちテレビディレクターに課せられた使命なのだと、今は考えている。
すでに見放されたといっても過言ではないテレビが再び信頼を勝ち取るためには、
愚直に真実を見つめ、伝え続けていくしかないのだと思う。

去年8月に行われた町長選挙では元総務課長の碇川豊さんが当選し、
復興に向けて新たなスタートを切った大槌町。
どんな焼け野原からでも、人間はいつも立ち上がってきた。
必ずや大槌町も、再び、笑顔あふれる町に復興するに違いない。
人間の知恵と勇気がそれを可能にするのだということは、歴史が示すとおりである。

まもなく3月11日がやってくる。
いまテレビや新聞紙上では「あれから1年」といった言葉が踊っている。
しかし、それは単なる通過点に過ぎない。
東北の人々にとっては3月9日も、3月10日も、3月12日も、
そしてその翌日もそのまた翌日も、辛く苦しい日々が続くことも、また現実である。
テレビにできることは、あの日をいつまでも忘れないように
報道し続けていくことに尽きると信じている。


文責:メディアアーツ事業部 奥村健太


(※このWEBサイトに掲載されている文章・映像・音声写真等の著作権は株式会社メディア・ワンおよびその他の権利者に帰属しています。権利者の許諾な く、私的使用の範囲を越えて複製したり、頒布・上映・公衆送信(送信可能化を含む)等を行うことは法律で固く禁じられています。


投稿日時: 2012-03-08 20:00:00

『「2万人近く」と「14人」』

先日の3月4日、僕は宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区を取材で訪れていた。
予定していた撮影を終え、
最後にこの地区を一望できるような場所はないかと
ある中学校へ足を向けた。

「誰かいるか見てきます」

職員に撮影許可を取ろうと、僕は車から降りて校舎に入った。
しかし、海から5kmほどしか離れていない中学校の内部は、
既にがれきは片づけられているものの、
窓ガラスは割れたまま。人の気配など感じられない。
避難所になっていたときの張り紙はまだ残されたままだった。

探すのを諦めて戻ってくると、カメラマンと音声が車から降りていた。
姿を見つけると、2人は門の近くに置かれた机を、静かに見つめている。







しばらくの間、机に書かれたメッセージから目を離すことができなかった。
陽は既に傾き、風が冷たく吹き付ける。

隣の机には、花や供え物のお菓子が置いてあった。
花はまだ新しく、今でも人が訪れていることがわかった。

「この中学校だけで14人も亡くなったんだ…」

心の中でつぶやく。
振り向くとカメラマンの目にも涙が溜まっていた。


「震災から1年でたくさん報道されても、東京の人は2週間もすれば忘れてしまうでしょ」

中学校へ立ち寄る前に訪れていた、仮設商店街。
40代前半だろうか、働き盛りにみえる男性店員は、こちらがカメラを止めた後にそう呟いた。

僕はなんと答えていいのかわからず、曖昧に返事をした。
すると男性店員は素早く目を逸らした。
僕に不満をぶつけても仕方がないとでも思ったのだろうか。
実のところ、被災地を訪れたのは、去年10月以来初めてだった。
5ヶ月の間震災前と変わらぬ生活を送ることで緩んでいた僕の心に、
男性店員の言葉は静かに突き刺さった。

東日本大震災からまもなく1年。
死者1万5854人 行方不明3203人 (2012年3月8日現在・警察庁まとめ)

「2万人近くの死者・行方不明者」

たしかに言葉でまとめれば、こうだ。

メディアは、東日本大震災の被害の大きさを、これでよく表現する。
しかし、恥ずかしい話かもしれないが、
僕はこの「2万人近く」という数字を見ても、別に悲しいとは感じない。

しかし、机に書かれていた「14人を忘れないで」という言葉に、僕の胸は痛んだ。

「忘れないでほしい」

あの小さな机の上にも書かれていたこの言葉が、被災者たちの一番の願いなのかもしれない。
今、我々メディアはこぞって「震災から1年」という節目を報道している。
それ自体は決して悪いことではない。
しかし、結局は一過性の「お祭り」に過ぎないのではないか。

あの中学校で命を落とした「14人」がいたことを忘れない。
それが今の僕にできることだ。


文責:制作部 杉井真一


(※このWEBサイトに掲載されている文章・映像・音声写真等の著作権は株式会社メディア・ワンおよびその他の権利者に帰属しています。権利者の許諾な く、私的使用の範囲を越えて複製したり、頒布・上映・公衆送信(送信可能化を含む)等を行うことは法律で固く禁じられています。


(1) 2 3 4 5 »
Media One co., ltd個人情報の取り扱いについてE-mail to webmaster
このページはIE6に最適化されています。