media-1

コラム


語られなかった東日本大震災 ~Episode 15~

Pocket
このエントリーを Google ブックマーク に追加

『歴史の証言者』(前編)

僕は三陸が好きだ。

空気が良い。
人柄が良い。
そして何より、緑がストンと真っ蒼な海に落ちる、断崖絶壁の
壮絶なる美しさ。
とあるドキュメンタリーの取材で、世界的に有名なノルウェーの
フィヨルドを目の前にしてもイマイチ感動が薄かったのは、
三陸海岸の光景が頭にチラついていたからなのだと今では理解している。

「3・11」以前・・・、これまで何度も何度も
取材で足を運んでいた、三陸。
貧しい土地だからこそ花開いた特有の麺文化を調べ尽くし、
時にはアワビの密漁者をカメラで追った。
その度にお世話になったのが、どうしてこんなところに、と
驚くほど鄙びた場所にある漁村だ。
岸壁にへばりつくような村、という形容がぴったりな場所を歩いていると、
喧騒に包まれた東京からやって来た僕は、ここが同じ日本で
あることを(また仕事中であることを)忘れる事もしばしばだった。
こんなに不便な場所に住まなくても、などと失礼なことを
考えたことも一度や二度ではない。
今では日本全国当たり前のように繋がっているネットが通じず、
でもこの場所ではそれが「当たり前」で・・・。
どこかホッとする場所、というといかにも陳腐過ぎる表現にも思うが、
まさにそんな言葉が似合うのが、三陸という土地だった。

またそこで採れる海の幸は驚くほど美味かった。
とある漁師の家では、東京で食べたら幾らになるんだ!?と思うほど
大量のウニやアワビを肴に酒を呑み、朝まで語り明かした事もある。
そんな三陸の海の民と話していると、必ず話題に上ったのが津波のことだ。
特に明治29年、昭和8年、そして昭和35年のチリ地震津波の際には、
この村が如何に甚大な被害を受けたのか、また三陸の地が如何に
壊滅的なダメージを受けたのかを、皆、一生懸命に語る。
実際に経験したことのない人々も、先祖の話を引用しながら、
津波の恐怖を滔々と語る。そしてその被害から、どのようにして
復興を成し遂げたのかも。
当時の僕には「へぇー」としか思えなかった一方、津波と戦ってきた歴史は、
三陸の海の民の誇りでもあるのだな、と強く思った記憶がある。

そんな漁師たちとは、あの日以降、連絡が取れない状況が続いた。
まだテレビカメラが入れる場所は限られ、新聞の情報も不足していた時だ。
電話も当然、通じない。

あの三陸の小さな漁村はどうなっただろうか?
あのおじちゃん、おばちゃんは無事だろうか?
そんな祈りのような思いとともに脳裏に蘇ったのは、かつて
三陸の地を襲った大津波のことだった。
これまで何度も津波の被害から立ち直ってきた海の民。
114年前の明治大津波を経験した人で存命の方はもう殆どいないはずだが、
78年前の昭和大津波であれば・・・と考えたのだ。
二度の大津波を生き延びた人にしか語れぬ思い・・・。
それは後世に語り継ぐ価値が十分あるはずだ。
彼・彼女にしか語れないことを取材、放送する。
僕はこれを今回の取材の、ひとつのヤマと決めた。

岩手県宮古市田老地区(旧・下閉伊郡田老村)。
「津波太郎(田老)」との異名を持つほど、津波の被害で知られた地区だ。
明治大津波では1859人もの死者を出し、生き残った者は
わずかに100名足らず。
ほぼ全滅、と言っても過言ではない甚大な被害だ。
昭和大津波でも死者・行方不明者は911人を記録し、
村は壊滅的な打撃を受けた。
かつての教訓を元に、この地区には巨大な防潮堤が築かれていたのだが、
津波はやすやす人類の英知の結晶を破壊し、乗り越え、今回も多くの
住民の命を奪っていった(死者137名、行方不明者62名(4月24日現在))。


(ボロボロになった防潮堤)

僕が田老地区に到着した時は、すでに何か所か取材を終えた後だった。
通常とは大きく違う被災地での取材活動。
水や食料の不足、カメラのバッテリー充電のための電気の手配など、
いつも以上に神経をすり減らす日々が続く。
加えて避難民の方々のストレスもピークを迎えようとしていた
時期だったと思う。
取材する側、される側双方でトラブルが起き始めていた。
そんな中、被害の現状、そして被災地が今、本当に求めていることなどを
取材しながら、「昭和大津波の生き残り」を探していたわけだが、
実際それどころでなかったのも事実。
避難所で聞き込みをしても、
「今、それどころじゃないから・・・」
と言われる事も多々あった。
高齢のために逃げ遅れ、今回の津波で命を落とされた方もいた。

もう何百人の避難民の方の話を聞いただろうか。
取材スケジュールもギリギリだ。
明日にはいったん、東京へ戻らねばならない。
諦めかけたその時、僕の耳にある情報が飛び込んできた。
「ああ、そんな人なら、確か○▲×避難所にいたと思うよ。」

・・・いた!
昭和8年の大津波を生き延びた人物は一体何を語るのか?
逸る心を押さえながら、僕は避難所へと急いだ。

(続く)

文責:メディアアーツ事業部 奥村健太

映像メディアのプロになる!ブログ版

コラム